しきはた[#ここで割り注終わり])[#ここから割り注]安岐佐伯[#ここで割り注終わり]
[#ここで字下げ終わり]
右の中、小里は、小里《ヲリ》出羽[#(ノ)]守など言ふ、戦国の武人の本貫である。摂津の遠里《ヲリ》(とほさと[#「とほさと」に傍線]ではない)小野《ヲノ》などゝ同類で、折り廻《タ》む道の意であらうから、降《オ》りるとは没交渉らしい。
折口は、木津の地では、一切おりぐち[#「おりぐち」に傍線]と濁つて言ふ事はない。字の宛て方がうまかつたのか、外に訓み方もない為か、時々、おれくち[#「おれくち」に傍線]と不吉な訓みをつけられる事があるばかりで、大抵始めて此妙な名字に出くはした人にも、すらりと通る様である。併し、おりくち[#「おりくち」に傍線]と清んで訓んでくれる人は、あまりない。此頃では、とうかするとおりぐち[#「おりぐち」に傍線]と言うて、自分乍ら、ずぼらになつたのに、驚く事がある。
明治四十二年の天満焼けのをり、朝日・毎日の二つの新聞で募つた義捐金に、喜捨した人の中に、淡路三原(或は津名)郡何村の折口某と言ふ姓名が見えた。目のよる処に玉とやらで、注意してゐた為か、其頃南区二つ井戸に近い上大和橋の辺から、身投げして助けられた女の人の名字も折口で、此は播州生れであつた事を、やはり新聞で知つた。其頃は、折口が地形の名で、幾百里離れてゐても、苟も日本の土地でありさへすれば、何の聯絡なしに、勝手に幾らでも出来るはずの家名だ、とたかを括る様になつてゐた為、書きとめて置かなんだのが残念である。
物心づいたわたしが見知つた、木津中の折口には、七軒あつた。折清(をりせ[#「をりせ」に傍線]、代々清兵衛・清吉の立てゝゐる家)・折佐(をりさ[#「をりさ」に傍線]、佐兵衛の後家よね[#「よね」に傍線]といふ年よりが、今も生きて、兄の家に出入りしてゐる。其孫の佐吉と言ふのが、博打《バクチ》うちになつて、よりつかぬさうである)・折治(をりぢ[#「をりぢ」に傍線]、当主治兵衛は、新町辺で貸座敷をしてゐる)・彦右衛門(代々折口彦右衛門で、今は簾屋である)・折口げん(今は亡びた。此家の妹娘は、中村雀右衛門と言ふ役者の妻とか、妾とかになつたと聞いた)・折口ゆき(わたしの七八つの頃、村の南のはづれに近い裏家に、此表札を見た。主人は其頃六十恰好の女であつた)、其外に、よね[#「よね」に傍線]の
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