感想の二三枚も書いて、故人をくやむ[#「くやむ」に傍点]心だけを、その後、知りあひになつた遺族の方々の前に表したい――さう思うて書かうとする訣、全く唯何となく、書いて見るだけのことである。
故人についての知識は、一から十まで、故人の友だち伊馬春部から得たもので、その書き物も大方、あれを讀め、之を讀めと言つては、春部の持つて來てあてがつた物から得たのである。だから相當に讀んでゐても、かう言ふ事をするのに、ひけ目[#「ひけ目」に傍点]を感じる訣である。今度出るのは、「櫻桃」・「人間失格」、それに「ヴィヨンの妻」――皆故人の名を、その時々に、一段づゝせりあげた作物である。
だが私は、あゝ言ふ變質風な性格や、慾望ばかりを描寫したものが、太宰作風の全體ではないと始終考へてゐるものだから、かう言ふとりあげ方は、外の本屋の傑作選といふ風なものについても、よい氣がしなかつた。これでは、太宰君が可愛相だ――、そんな風に思うて來たものである。だから、角川の文庫の竝べ方についても、あまりぞつとしない[#「ぞつとしない」に傍点]氣がしてゐる。そんな訣で、せめて「竹青」を入れてくれ、と希望を述べた位である。
津輕を知らない人は、始終曇つてばかりゐて、人々も重くるしい口ばかりきいて居るやうに思ふかも知れぬし、又故人の作物評にも、さう言つた「人國記」風な概念がまじつて來てゐるやうである。ところが實際の津輕は、廣々とおだやかで、人も上品な暮しにあこがれることを忘れてはゐない。此事は、おなじ地方根生ひの文學を書いた北畠八穗さんや、深田久彌氏のもので見ても訣る。もつと手取りばやいことは、あの優雅な弘前の町を、一わたり歩いて來ることである。
何だかふつと、私の頭を掠めて、「清き憂ひ」と言ふ語が、浮んで來る。これが、津輕びとの性格の裏打ちになつてゐるやうな氣がする。こんなことを言ふと、買ひ被りだと笑はれさうだし、又人間さう一概に、言へるものでないことも訣つてゐるが、尠くとも太宰君は、さう言ふ人だつた氣がする。文學者は、藝術の選民なのだから、彼がさう言ふ人だつた、と思ふ私の考へを、間違ひだと斷言の出來る人はない筈である。
その作物を見て、私はいつもこの清き憂ひに、心を拭はれるやうに感じてゐた。其なればこそ、顏も見たことのない、又顏も見ないでしまつたこの友人の作物を見ることを、喜んで來たのであつた。だから世間
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