相混じてゐた為もある。ゆきあひ祭り[#「ゆきあひ祭り」に傍線]を重く見るのも、其である。春と夏とのゆきあひ[#「ゆきあひ」に傍線]に行うた鎮花祭と同じ意義のもので、奈良朝よりも古くから、邪気送りの神事が現れた事は考へられる。鎮花祭については、別に言ふをりもあらう。唯、木の花の散ることの遅速によつて、稲の花及び稔りの前兆と考へ、出来るだけ躊躇《ヤスラ》はせようとしたのが、意義を変じて、田には稲虫のつかぬ様にとするものと考へられた。其と同時に、農作は、村人の健康・幸福と一つ方向に進むものと考へた。だから、田の稲虫と共に村人に来る疫病は、逐はるべきものとなつた。春祭りの「春田打ち」の繰り返しの様な行事が、段々疫神送りの様な形になつた。

     一五 夏の祭り

七夕祭りの内容を小別けして見ると、鎮花祭の後すぐに続く卯月八日の花祭り、五月に入つての端午の節供や田植ゑから、御霊・祇園の両祭会・夏神楽までも籠めて、最後に大祓へ・盂蘭盆までに跨つてゐる。夏の行事の総勘定のやうな祭りである。
柳田先生の言はれた様に、卯月八日前後の花祭りは、実は村の女の山入り日であつた。恐らくは古代は、山ごもりして、聖なる資格を得る為の成女戒を享けたらしい日である。田の作物を中心とする時代になつて、村の神女の一番大切な職分は、五月の田植ゑにあるとするに到つた。其で、田植ゑの為の山入りの様な形を採つた。此で今年の早処女となる神女が定まる。男も大方同じ頃から物忌み生活に入る。成年戒を今年授からうとする者共は固より、受戒者もおなじく禁欲生活を長く経なければならぬ。霖雨の候の謹身《ツヽミ》であるから「ながめ忌み」とも「雨《アマ》づゝみ」とも言うた。後には、いつでもふり続く雨天の籠居を言ふやうになつた。
此ながめいみ[#「ながめいみ」に傍線]に入つた標《シルシ》は、宮廷貴族の家長の行うたみづのをひも[#「みづのをひも」に傍線]や、天の羽衣様の物をつける事であつた。後代には、常もとりかく[#「とりかく」に傍点]様になつたが、此は田植ゑのはじまるまでの事で、愈早苗をとり出す様になると、此物忌みのひも[#「ひも」に傍線]は解き去られて、完全に、神としてのふるまひが許される。其までの長雨忌《ナガメイ》みの間を「馬にこそ、ふもだしかくれ」と歌はれた繋《カイ》・絆《ホダシ》(すべて、ふもだし[#「ふもだし」に傍線])
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