り]
天武の夫人、藤原[#(ノ)]大刀自《オホトジ》は、飛鳥の岡の上の大原に居て、天皇に酬《むく》いている。この歌のごときは「降らまくは後《ノチ》」とのからかい[#「からかい」に傍点]に対する答えと軽く見られている。が、藤原氏の女の、水の神に縁のあったことを見せているのである。「雨雪のことは、こちらが専門なのです」こういった水の神女としての誇りが、おもしろく昔の人には感じられたのであろう。藤井が原を改めて藤原としたのも、井の水を中心としたからである。中臣女や、その保護者の、水に対する呪力から、飛鳥の岡の上の藤原とのりなおして、一つに奇瑞を示したからであろうと考える。中臣寿詞を見ても、水・湯に絡んだ聖職の正流のような形を見せている。中臣女の役が、他氏の女よりも、恩寵を得る機会を多からしめた。光明皇后に、薬湯施行に絡んで、廃疾人として現れた仏身を洗うた説話の伝っているのも、中臣女としての宮廷神女から、宮廷の伝承を排して、后位に備るにさえ到った史実の背景を物語るのである。藤原の地名も、家名も、水を扱う土地・家筋としての称えである。衣通《そとおり》媛の藤原|郎女《いらつめ》であり、禊ぎに関聯した海岸に居《お》り、物忌みの海藻の歌物語を持ち、また因縁もなさそうな和歌[#(ノ)]浦の女神となった理由も、やや明るくなる。
私は古代皇妃の出自が水界に在って、水神の女であることならびに、その聖職が、天子即位|甦生《そせい》を意味する禊ぎの奉仕にあったことを中心として、この長論を完了しようとしているのである。学校の私の講義のそれに触れた部分から、おし拡げた案が、向山武男君によって提出せられた。それによると、衣通媛の兄媛なる允恭《いんぎょう》の妃の、水盤の冷さを堪《た》えて、夫王を動《うごか》して天位に即《つ》かしめたという伝えも、水の女としての意義を示しているとするのだ。名案であると思う。穢れも、荒行に似た苦しい禊ぎを経れば、除き去ることができ、また天の羽衣を奉仕する水の女の、水に潜《カヅ》いて、冷さに堪えたことを印象しているのである。水盤をかかえたというのは、斎河水《ユカハミヅ》の中に、神なる人とともに、水の中に居て久しきにも堪えたことをいうのらしい。やはりこの皇后の妹で、衣通媛のことらしい田井中比売《タヰノナカツヒメ》の名代《ナシロ》を河部と言うたことなどもおほゝどのみこ[#「おほゝどのみこ」に傍線]の家に出た水の女の兄媛・弟媛だったことを示すのだ。
だが、衣通媛の名代は、紀には藤原部としている。藤原の名が、水神に縁深い地名であり、家の名・団体の名にもなって、かならずしも飛鳥の岡の地に限らなかったことを見せる。ふぢ[#「ふぢ」に傍線]はふち[#「ふち」に傍線]と一つで「淵《フチ》」と固定して残った古語である。かむはたとべ[#「かむはたとべ」に傍線]の親は、山背[#(ノ)]大国[#(ノ)]不遅(記には、大国之淵)であった。水神を意味するのが古い用語例ではないか。ふかぶちのみづやればなの神[#「ふかぶちのみづやればなの神」に傍線]・しこぶち[#「しこぶち」に傍線]などから貴《ムチ》・尊《ムチ》なども、水神に絡んだ名前らしく思われる。神聖な泉があれば、そこには、ふち[#「ふち」に傍線]のいる淵があるものと見て、川谷に縁のない場処なら、ふちはら[#「ふちはら」に傍線]と言うたのであろう。
みづのをひも[#「みづのをひも」に傍線]のみづ[#「みづ」に傍線]は瑞《ミヅ》と考えられそうである。だが、それよりもまだ原義がある。このみづ[#「みづ」に傍線]は「水」という語の語原を示している。聖水に限った名から、日常の飲料をすら「みづ」と言うようになった。聖水を言う以前は、禊ぎの料として、遠い浄土から、時を限ってより来る水を言うたらしい。満潮に言うみつ[#「みつ」に傍線]も、その動詞化したものであろう。だから、常世波《トコヨナミ》として岸により、川を溯《さかのぼ》り、山野の井泉の底にも通じて春の初めの若水となるものである。みつ/\し[#「みつ/\し」に傍線]は、このみづ[#「みづ」に傍線]をあびたものの顔から姿に言う語で、勇ましく、猛々しく、若々しく、生き生きしているなどと分化する。初春の若水ならぬ常の日の水をも、祝福して言うたところから拡がったものであろう。満潮時をば、人の生れる時と考えるのも、常世から魂のより来ると考えたためであるらしい。みつぬかしは[#「みつぬかしは」に傍線](三角柏・御綱柏)や、みづき[#「みづき」に傍線]と通称せられるいろいろの木も、禊ぎに用いた植物で、海のあなたから流れよって、根をおろしたと信じられていたものらしい。
みつ[#「みつ」に傍線]はまた地名にもなった。そうした常世波のみち来る海浜として、禊ぎの行われたところである
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