てしまふ訣には行かなくなつた次第なのです。それでこの皇后が紀伊国に大嘗《オホムベ》に使ふ、柏の葉をとりに行つた帰りに宮中に新しい女性を召されたといふことを聞いて怒つて、そのまゝ今の淀川を遡つて、山城に入つて、木津川を更に遡つて行かれたといふことになつてをります。古事記と日本紀では、これ亦表現が違ひまして、日本紀は還らず、大倭葛城の故郷に帰られ、古事記の方は途中から引き返して来られたやうです。山城では珍しくも、蚕を飼つてゐる者の家に暫らく居られたことになつてゐる。これはやはり女性のさすらひの旅なのです。女の流離の物語、磐姫の場合は、たゞ威勢よい「うはなり嫉み」の物語だと思つて来ましたから、或はそれをさすらひのあはれな旅だと思ひませんけれども、やはり貴種流離の要素は持つてゐるのです。
ずつとさがりまして、天武天皇の時にちようど似た立ち場の皇女が二人、見えてゐます。一人は、大伯皇女。大津皇子といふ男性の兄弟が殺されたのでその墓へ行かれました。その道の叙述は、万葉では飛び/\に僅かの歌で述べるのですから道の叙述は分りませんが、恰も道の旅を考へることが出来るやうになつてをります。それと同じやうな位置の十市皇女といふ方は、自分の夫である所の弘文天皇崩御の後に、伊勢斎宮に参られる、その途で名高い「河上《かはのへ》の五百箇磐群」の歌が――御自分の作ではないが――出来ます。その刀自の自発的に作つた歌と言ふことになつてゐますが、万葉の、誰某の作だとか言ふ意味は、いろ/\考へて見なければならない問題だと思ひますが、まあさういふ風に書いてをります。これも女の旅なんです。さうしてこの方には、更に都に帰つて宮中で俄かに死なれたといふやうな、小説的に考へれば小説的にも考へられ、そんな風に考へるのがいけないと言へば、もつと平凡にも考へられるやうな死に方をしてをられます。貴い女性がさういふ風に旅にさすらふといふ話を、沢山集めれば集められるのです。男ばかりが旅をしてゐるわけではない。女の人も旅をしてゐる。併しそれはずつと後世の事とする考へ方がある。日本の女の人はどこにも出ない。家をも出ないと考へて来てゐる。平安朝時代の貴族の女性は、自分のゐる室すらも出ないものとなつてゐる。さういふ生活が続いてをりますから、男兄弟と女姉妹とは他人見たいで、顔を見たら、女と男だから恋愛の心が起つたりする。だから平安時代の
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