即、ふえる[#「ふえる」に傍線]と言ふ言葉は、唯増殖する意味だけではなく、分割する即、同じ性質を持つたものに分裂することである。このふゆ[#「ふゆ」に傍線]と言ふ言葉が、我々の考へて居るところでは、下二段の動詞だけであるが、昔程増殖する意味より分割する意味の方が多かつた。「品陀の日の御子 大雀《オホサヾキ》おほさゞき、佩かせる大刀。本つるぎ 末ふゆ……」(応神記)と言ふのは、根本が両刃の劒で尖が幾つにも岐れてゐる、即、刃物に股があり末が分裂してゐると言ふのである。ふゆ[#「ふゆ」に傍線]は魂を分裂さすことだから、一種のことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]の唱言であつた。このふゆ[#「ふゆ」に傍線]と言ふ言葉が、はつきり名詞になると、季節の冬になる。これは疑ひない。年の終りになると、みたまのふゆ[#「みたまのふゆ」に傍線]の祭りを行ふ。その時期がふゆ[#「ふゆ」に傍線]なのである。それから極く小な形が出来て、季節の冬になつた。「みたまのふゆ[#「ふゆ」に傍線]祭り」を間に置いて考へると訣る。ふゆまつり[#「ふゆまつり」に傍線]のふゆ[#「ふゆ」に傍線]が、名詞的な感じを持つて来るのである。
文法学者の挙げる例は、古代と近代とを混合する。其為、実例なのか、其とも譬喩として使つてゐるのか、訣らない物がある。それで、私は近世の例を避けて言ふ。例へば、鎮魂歌をたまふり[#「たまふり」に傍線]の歌と言ふ。国々に於ける鎮魂歌は、くにぶり[#「くにぶり」に傍線]と言うて現れた。後には段々本義を忘れて、所謂風俗歌の感じになつて来る。くにぶり[#「くにぶり」に傍線]が、国のたまふり[#「たまふり」に傍線]の歌といふ意味を持つ迄には、大分な時間を経て、人の頭に熟して来なければならない筈である。ふゆ[#「ふゆ」に傍線]も其と同じ訣なのである。ふゆ[#「ふゆ」に傍線]とだけ言つて、今の冬の感じが出て来る訣ではない。ふゆ[#「ふゆ」に傍線]と言ふ言葉を持つた印象深い事実があつて、其からふゆ[#「ふゆ」に傍線]といふ単純化せられた言葉が出来、初めて我々にぴつたり訣つて来るのである。熟語の形をとる場合は、其が割合はつきりして居る。みたまのふゆ[#「みたまのふゆ」に傍線]は魂を分割する式の事で、語形としては割に不安がない。後に御蔭を蒙るといふ意味になつて来る。語根と言ふものが段々用言状になつて行くにして
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