りでなく、文学そのものゝ主題が亦、旅行的なものにすら傾いて来るのである。此は、概論でなく、事実であつた。譬へば、最後代的なものを捉つて見ても、さうである。
高野山に於ける浄土聖、萱堂の非事吏《ヒジリ》の間に発達したと思はれる苅萱道心親子の物語は、出発点を九州に、頂点を高野山に、結末を信州に置いて、一見、此説経者の文芸が、其三つの地の何れに発祥したものか知れなくなつてゐる。又、おなじ五説経の「山椒太夫」にしても、前者が、善光寺親子地蔵の縁起である様に、「かなやき地蔵」の由来と伝へて、丹後由良湊の事の様に見えてゐるが、事実は津軽岩木山の神と、切つても切れぬ因縁を持つてゐる。簡単な結論の容易につけられない問題ではあるが、ある部分まで言うて正しいことは、一つの地方に根ざした信仰が、搬ばれて行つた途中にも、根を卸す場所が出来て、其処を以て、一条の物語の結末を告げ、又くらいまっくす[#「くらいまっくす」に傍線]を作ることになつたのである、と言ふ見方も確かに成り立つのである。文芸が旅行することによつて、その物語の主人公も、漂遊を重ねると謂つた風に考へられ、更に其旅程も、次第に確実なものとなつて来る訣である。其文芸の中、可なり古代的なものから見ても、さうである。譬へば、「天田振《アマタブリ》」として、大歌――宮廷詩――に採用せられたものに就いて見ても、さうである。啻《ただ》に謫流地の伊予と、元の地なる都との間における事件を述べるに止めずして、尊い女性が、思ひ人の後を追うて漂浪する風に語りひろげる様にすらなつてゐる。旅行の主題に添うて物語られる事によつて、次第に旅の気分が深まつて来てゐるのである。譬へば又、「天田振」の、やゝ文学的要素の濃度を加へたと思はれる、石上乙麻呂《イソノカミノオトマロ》の土佐流謫事件を謡うた万葉集所収の小長歌にしても、さうである。乙麻呂自身の心に浮んで来るはずのない様な叙述の詞章の心の底には、先行して行はれた天田振が流れてゐるのである。而も之を、幾種かの類型を間に立てた中臣宅守・茅上[#(ノ)]郎女の相聞歌と比べて見ると、其が文学意識を濃厚に持つた極めて長い連作短歌の集団と言ふ特殊な形をはつきり出してゐる。其は一方にかうした二つの事件を表現する上において、幾様かの同時代の相が見られるのだとも言へよう。即、ある層においては、古物語の中の、くどき[#「くどき」に傍
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