のなくなつて来た反動である。後撰を勅撰し、更に漢詩文集を欽定せられたのは、醍醐の事業に競争意識を持つて居られた村上天皇であつた。此欽定事業は奈良以後平安初期に続いた漢詩文の復興を期する意味と、一種の文化誇示の目的との外に、文学史風に見れば、外国文学の最後を記念する標本を立てた訣である。だから、醍醐が短歌を文学として承認せられ、漢詩文と対等の位置に置かれた因縁は、明らかである。
新撰万葉集が果して菅家の編著であるなら、古今集と時代を接して、既に対等の文学価値を認める傾向のあつた事が知れる。而も一代の学者たる、権勢家の手になつたのである。譬ひ聖経に対する――和讃の形式を模したとしても――或は又修辞上の便覧書であつたところで、更に或は、倭漢朗詠集の前型として、声楽の台帳の用途を持つものにしてからが、短歌の価値の認められ出した事は明らかである。国文学史の上に、平安王朝の前百年を、中百年余と、末一世紀半とに対して、区劃する所以である。
四 歌枕及び幽玄態の意義変化
宮廷の日常交際の古歌引用は、流行に影響せられて行つた。勿論、其前に平談のみか、贈答の歌にも知識を誇つて、古歌を符牒式に
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