達したところも、一つの文学の新しい処女地ではあつたけれども、追随者の向ふ方角に気《ケ》どられて、自ら亦踵を返された。盲動であつたが為に、群行の中で、静かに一個の芸術を絞り出す思案をする間がなかつたのだ。
西行は、ともかくも個性に徹した文学を生んだ。其は、根本的に多少の拗曲を含んでゐたが、何にしても、江戸に到るまで、隠者階級の生活態度に、一つの規範を加へた。芭蕉は、彼の作物からわらひ[#「わらひ」に傍線]とわびしさ[#「わびしさ」に傍線]とを、とりこんだ。さうして芭蕉自身の絶え間ない文学的死と、復活とによつて、完全に主義とし、態度とした。さうして其影響を、国民の生活情調に滲み入らせた。孤独にして悲劇精神を持ちこたへて行つた西行の為事は、芭蕉の主義宣布以前に、近世日本の正しい芸術傾向と見做されてゐる心境をつくりあげてゐた。西行既に主義態度を思ひ到らないでも、実感と個性とに徹する事によつて、実現してゐた。
勿論西行とても、態度として、幽玄主義をとつたこともあつた。けれども、其素質が、真の寺家風でなく、堂上風にも向かぬわびしがり[#「わびしがり」に傍線]とうき世知り[#「うき世知り」に傍線]であつた。其事が、却つて思はぬ方向で、幽玄は、神秘でもなく、妙不可説でもない事を証明する作品を生んだ。自然に持つた様な理会で、人にも対してゐた。自然其物に向つても、人に対する如き博い心と、憐みとを持つことを得た。俊成の「鶉なくなり」の歌は、其かみ俊慧法師の加へた批判を、今も変へる事の出来ない弱点を備へてゐる。「花も紅葉もなかりけり」の定家の自讃歌も「浦の苫屋」又は「秋の夕ぐれ」の語の持つ歌枕式の、知識感銘を忘却した後世では、どう心持ちを調節しても、野狐禅衆の幻としか見えない。
「心なき身にもあはれは知られけり」も、その一類の主義から生れた文学である。が、西行として見れば、活路はある。「心あらむ人に見せばや」の本歌の「津の国の難波わたりの春の眺め」を見た時、自分の外にも話せる相手を思うた本歌に、敬虔な気持ちで対したのである。能因が歌枕を書いた――?――時代と、西行の時勢とでは「心あり」といふ語の用語例も非常に変化した。抽象化せられ、理想化せられた其内容は、前にも述べたとほりである。西行自身などを典型的なものとせなければならぬ生活情調を意味する事になつて来た。「心ある」状態が「あはれ知る」心
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