つた。権門に出入りして、私に親方・子方に似た関係を結ぶ風が、盛んになつて行つた。
題材や格調の新しい刺戟が、詩歌合せから歌合せに来た。わが文学評論の初歩と見る可き歌学・歌論は、歌合せの席上から生れたのである。新しい歌合せは、歌評から見ても、前代の歌学書・歌論書よりは、用語も、態度も、論理も、鑑賞も、文学的になつてゐる。前代の歌合せの左右講師になる人は、歌の学問・故事を知らねばならぬのだから、講師に択ばれる様な人は、段々師範家と云ふ形をとる。さうして其が、判者となり、勅撰集の選者たる地位を得る。名高い歌人は、文学者と云ふより、歌学の伝統を守る者、と云ふ方がよい位だ。其最後に出て、歌学の伝統をあら方集大成したのは、藤原俊成である。此人の態度は、即新古今集の中心となつた歌人らの主義と見てよいであらう。俊成は、神秘主義に煩はされてゐるが、芸術報恩説に達したのは、一途であつてうや/\しい性格と文学に持つ愛執の深さからである。
鴨長明のやうな半僧生活の修道者もあれば、又、西行の如き法師も含つてゐる隠者階級には、かうした堂上の故実伝統者も数へねばならぬ。此流の者は、皇族を大檀那とする事によつて歌道の正統なる事を示し、中央地方の武家階級の信用を固めて、利福を獲ようとするまでになつた。定家が既にさうであり、其子孫皆、其方便に従うた。あちこちの権門をたのんだのが、かう言ふ意義から二流の皇統に岐《わか》れて奉仕した。新古今時代には、一時、伝統のまゝそつとして措いて、各流から超越した態度を示した。此も、新古今集の批判に忘れてはならぬ、極めてよい態度である。後鳥羽院の個性を、おし貫かれた結果である。
歌道の故実家伝統の間から抜け出して、新しい暗示をば具象化しようとした俊成の代表作物は、実は彼自身の感じた、正しい未来の文学其物ではなかつた。新古今の歌人たちも、俊成風の正しい成長と思うて居たであらうが、此|亦《また》逸れて外核ばかりを強く握りしめたに過ぎない。長明・西行・俊成を三つの隠者の型に、其が由来する所を説いた。此後続いた隠者の外的条件は、鴨長明がしたと信ぜられてゐる、第一の様式である。こゝに言ふ武家初期と、中期全体、それに末期|即《すなはち》江戸のさしかゝりまでは、かうした隠者が文学の本流になつて居るのである。
此時代に進むと、隠者の存在は、必然の意義を社会に持つものと見えて来る。俊成な
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