歌は真の残骸である。赤人にしても、其短詩形に於て表して居る能力は、長歌に向うては、影を潜めてしまつた様に見える。新らしく完成せられた小曲に対して集中する求心的感動の激しさ、其で居て観照を感情に移すのに毫も姿を崩さない、静かな而もねばり強い把握力の大きさには、驚かされる。其赤人の長歌が、富士の歌と言ひ、飛鳥神南備の歌と言ひ、弛緩した心を見せて居るに過ぎない。それに短篇に段々傾いて行つて居るのも、気分が長詞曲にはそぐはなくなつたことを見せて居る。奈良朝も、後になるほど、長歌の製作力が、世間全体になくなつて来る。憶良の長歌の如きも、知識と概念との、律動の伴はぬ羅列だ。一貫する生命力を感受する事の出来ぬ生ぬるい拍子によろけて居る様に見える。
特に憶良の歌に著しく所謂延言の多く用ゐられたのは、音脚に合せる為で、此点から見ても長歌は、奈良初期に既に生命を失ひ、中期には、残骸となつて居た事が知れる。高橋虫麻呂の長歌の如きも、かなりの長篇はあつても、皆、叙事詩の題材を、実際叙事的に生ぬるく叙述したに過ぎない。だから末期の家持等になると、昔を憧れる心から、人麻呂の筆法をなぞつても、勿論古風な荘重味は、か
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