れば、寿詞を唱へなければ、安心してそこに仮寝の夢を見る気にはなれなかつたものと信じる。人家に宿る場合は屋敷を踏み鎮め、祓へを行ふ事によつて安らかに居つく事が出来、山野海岸に仮廬を作つた場合は、必、新室のほかひ[#「ほかひ」に傍線]をした。さうして直会《ナホラヒ》なる新室のうたげ[#「うたげ」に傍線]を行うた事と考へるのが、間違ひとは思はれない。
私も以前は、旅の途すがら、海原を見|霽《はら》し、美しい花野の展けて居る場処に来た旅人たちが、景色にうたれて、歌を詠じたものと考へて居た。併し其は単なる空想であつた。仮小屋でも、新室は新室である。うたげ[#「うたげ」に傍線]の場処で、即興に頓才を競ふ心持ちを持つた人々が、四顧の風景の優れた小屋に居て、謡ひ上げる歌は、段々其景を叙することに濃かに働いて来る。景を以て情を抒べる方便にばかりは、使つて居られなくなつて来た。

     六

其に一つは、漢魏以後の支那文学の影響が、帰化した学者・僧侶や、留学帰朝者などから、直接に授けられた時代である。我々が考へる平安朝初期、嵯峨天皇を中心とした漢文学の盛況と比べて、文章に於てこそ、発想の自由を欠いた痕
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