現にも、形にも、理会程度からも、新しみを持つて居ると見られる。
後飛鳥期の歌で見ると、
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山川に鴛鴦《ヲシ》二つ居て 並《タグ》ひよく 並《タグ》へる妹を 誰か率行《ヰニ》けむ(野中川原史満――日本紀)
新漢《イマキ》なる小丘《ヲムレ》が傍《ウヘ》に雲だにも 著《シル》くし彷彿《タタ》ば、何か嘆かむ(斉明天皇――同)
飛鳥川 みなぎらひつゝ行く水の 間もなくも思ほゆるかも(同)
山の端《ハ》に鴨群《アヂムラ》騒ぎ行くなれど、我は寂《サブ》しゑ。君にしあらねば(同――万葉巻四)
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其外、此時代の歌と伝へる物を日本紀で見ると、
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はろ/″\に琴ぞ聞ゆる。島の藪原。
をち方のあは野《ヌ》の雉子《キヾシ》とよもさず……
小林《ヲバヤシ》に我を引入《ヒキイ》れて姦《セ》し人の面も知らず……(巫女の諷謡)
被射鹿《イユシヽ》をつなぐ川辺の若草の……(斉明天皇)
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と言ふやうに、極めて部分的ではあるが、単なる口拍子に乗つた連ね文句ではなく、外界を掴む客観力の確かさがある。だから主題に入つても、其修飾部分の効果が、深く気分にはたらきかけるだけの鮮明と、斬新とがある。
かうした序歌の断篇の中、始終くり返される様になつた流行文句は、皆さう言ふ印象深い客観描写の物であつた。「いゆしゝを」の句は、万葉にも使はれて居る。「をちかたの」はある地物の隔てを越して、向うを指す句で、景色が目に浮くところから、奈良朝に入つても「をちかたの……(地名)」と言ふ風に、融通自在に用ゐられる民謡の常用句であつた。又、万葉に繰り返される「わがせこを我が……松原……」なども、抒情的で居て、印象のきはやかさ[#「きはやかさ」に傍点]のある為であつた。
後飛鳥期(舒明――天武)の歌を疑へば、万葉の第一のめど[#「めど」に傍点]なる柿本人麻呂の歌さへ信じる事が出来なくなる。万葉集にも、此時代をば、大体に於て巻頭にすゑる傾向のあるのは、記・紀記載の末に接して、ある確実さを感じて居たからであらう。
仁徳・雄略朝の歌などを、不調和に冒頭に据ゑたのは、古典・古歌集としての権威を感じさせる為であつたらう。だから、内容から言へば、後飛鳥期を以て、時代の起しとしたものと見てよい。鴛鴦《ヲシ》・を丘《ムレ》の雲・みなぎらふ水・山越ゆる鴨群《アヂ
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