ためには、自己讃美あれ。当来の学徒にとつては、正しい歴史的内省がなければならぬと思ふ。私はわれ/\の祖先がまだ国家意識を深く持たなかつたと思はれる飛鳥の都以前の邑落生活の俤を濃く現して見て、懐しい祖先のいとほしい粗野な生活を見瞻《みまも》らなければならぬ。
二
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佐韋《サヰ》川よ 霧立ちわたり、畝傍山 木《コ》の葉《ハ》さやぎぬ。風吹かむとす(いすけより媛――記)
畝傍山 昼は雲と居《ヰ》、夕|来《サ》れば、風吹かむとぞ 木の葉さやげる
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文献のまゝを信じてよければ、開国第一・第二の天皇の頃にも、既にかうした描写能力――寧《むしろ》、人間の対立物なる自然を静かに心に持ち湛へて居ることの出来たのに驚かねばならない。たとひ、此が継子の皇子の異図を諷したものと言ふ本文の見解を、其儘《そのまま》にうけとつても、観照態度が確立して居なければ、此隠喩を含んだ叙景詩の姿の出来るはずはないと思ふ。論より証拠、其後、遥かに降つた時代の物と言ふ、仁徳天皇が吉備のくろ媛[#「くろ媛」に傍線]にうたひかけられた歌
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山料地《ヤマガタ》に蒔ける菘菜も 吉備びとゝ共にしつめば、愉《タヌ》しくもあるか(仁徳天皇――記)
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の出て来るまでは、叙景にも、自然描写にも、外界に目を向けた歌を見出すことが出来ないばかりか、歌の詞すら却つて段々古めいて、意味が辿りにくゝなるのである。すさのをの命[#「すさのをの命」に傍線]の「やくもたつ」の歌の形の、後世風に整ひ、表現の適確なのと、其点同様で、疑ひもなく、飛鳥の都時代以後の※[#「てへん+纔のつくり」、398−6]入或は、擬作と思はれるものである。畝傍山の辺の風物の不安を帯びて居る歌の意味から、寓意の存在を感じて、綏靖即位前の伝説に附会して、織り込んだものと思はれる。
仁徳の菘菜の御製の方は、叙景の部分は僅かであるが、此方は自然に興味を持つた初期のものと見てもよい程、単純で、印象を強く出して居る。此も寧、抒情詩の一部であるが、畝傍山の歌よりは却つて古いものと思はれる。だが此とて、必しも仁徳御宇のものともきまらない。此位の自然観は、大体記録の順序通りに、此天皇の頃の物と見てもよろしい様だが、仁徳天皇に関係した歌謡は、全体として雄略・顕宗朝頃のものよりも、表
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