だった。大倉粂馬さんという人の書かれたもので、大倉集古館におさまって居る、冷泉為恭筆の阿弥陀|来迎図《らいごうず》についての、思い出し咄《ばなし》だった。不思議と思えば不思議、何でもないと言えば何のこともなさそうな事実|譚《たん》である。だがなるほど、大正のあの地震に遭うて焼けたものと思いこんで居たのが、偶然助かって居たとすれば、関係深い人々にとっては、――これに色んな聯想《れんそう》もつき添うとすれば、奇蹟談の緒口《いとぐち》にもなりそうなことである。喜八郎老人の、何の気なしに買うて置いたものが、為恭のだと知れ、其上、その絵かき――為恭の、画人としての経歴を知って見ると、絵に味いが加って、愈《いよいよ》、何だか因縁らしいものの感じられて来るのも、無理はない。
古代仏画を摸写《もしゃ》したことのある、大和絵《やまとえ》出の人の絵には、どうしても出て来ずには居ぬ、極度な感覚風なものがあるのである。宗教画に限って、何となくひそかに、愉楽しているような領域があるのである。近くは、吉川霊華を見ると、あの人の閲歴に不似合いだと思われるほど濃い人間の官能が、むっとする位つきまとうて居るのに、気のつ
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