して、写真を思い出して見ると、弥陀の腰から下を没している山の端の峰の松原は、如何にも、写実風のかき方がしてあったようだ。そうして、誰でも、こういう山の端を仰いだ記憶は、思い起しそうな気のする図どりであった。大和絵師は、人物よりも、自然、装束の色よりも、前栽の花や枝をかくと、些《すこ》しの不安もないものである。
私にも、二十年も前に根来・粉川あたりの寺の庭から仰いだ風猛《かざらぎ》山一帯の峰の松原が思い出されて、何かせつない[#「せつない」に傍点]気がした。滝や、紅葉のある前景は、此とて、何処にもあるというより、大和絵の常の型に過ぎぬが、山の林泉の姿が、結局調和して、根来寺あたりの閑居の感じに、適して居る気がするのではなかろうか。
さて其後、大倉集古館では、何ということなく、掛けて置いたところが、その地震前日の紳士が、ふらりと姿を顕《あらわ》して実は之を別の処に出して置いて、静かに拝ましてくれというたのは、自分だったと名のるという後日譚になり、其が、籾山さんだったという事になって、又一つ不思議がつき添うて来る、ということになるのだが、此とても、ありそうな事が、狭い紳士たちの世間に現れて来た為に、知遇の縁らしいものを感じさせたに過ぎぬ。が、大倉一族の人々が、此ほど不思議がったというのには、理由らしいものがまだ外にあるのであった。事に絡んで、これはこれはと驚くと同時に、山越しの弥陀の信仰が保って来た記憶――そう言うものが、漠然と、此人々の心に浮んだもの、と思うてもよいだろう。一家の中にも、喜六郎君などは、暫時ながら教えもし、聴きもした仲だから、外の族人よりは、この咄のとおりもよいだろう。
どんな不思議よりも、我々の、山越しの弥陀を持つようになった過去の因縁ほど、不思議なものはまず少い。誰ひとり説き明すことなしに過ぎて来た画因が、為恭の絵を借りて、えとき[#「えとき」に傍点]を促すように現れて来たものではないだろうか。そんな気がする。
私はこういう方へ不思議感を導く。集古館の山越しの阿弥陀像が、一つの不思議を呼び起したというよりも、あの弥陀来迎図を廻って、日本人が持って来た神秘感の源頭が、震火の動揺に刺激せられて、目立って来たという方が、ほんとうらしい。
なぜこの特殊な弥陀像が、我々の国の芸術遺産として残る様になったか、其解き棄てになった不審が、いつまでも、民族の宗教心・審美観などといえば大げさだが、何かのきっかけには、駭然《がいぜん》として目を覚ます、そう謂ったあり様に、おかれてあったのではないか。だから事に触れて、思いがけなく出て来るのである。そう思えば、集古館の不思議どころでなく、以前には、もっと屡《しばしば》、そう言う宗教心を衝激したことがあったようである。手近いところでは、私の別にものした中将姫の物語の出生なども、新しい事は新しいが、一つの適例と言う点では、疑いもなく、新しい一つの例を作った訣《わけ》なのである。
だが其後、おりおりの感じというものがあって、これを書くようになった動機の、私どもの意識の上に出なかった部分が、可なり深く潜んでいそうな事に気がついて来た。それが段々、姿を見せて来て、何かおもしろおかしげにもあり、気味のわるい処もあったりして、私だけにとどまる分解だけでも、試みておきたくなったのである。今、この物語の訂正をして居て、ひょっと、こう言う場合には、それが出来るのかも知れぬという気がした。――其だけの理由で、しかも、こう書いていることが、果してぴったり、自分の心の、深く、重たく折り重った層を、からりからりと跳ねのけて、はっきり単純な姿にして見せるか、どうかもそれは訣《わか》らぬのである。
日本人総体の精神分析の一部に当ることをする様な事になるかも知れぬ。だが決して、私自身の精神を、分析しようなどとは思うても居ぬし、又そんな演繹式《えんえきしき》な結果なら、して見ぬ先から訣っているような気もするのだから、一向して見るだけの気のりもせなんだのである。
私の物語なども、謂《い》わば、一つの山越しの弥陀《みだ》をめぐる小説、といってもよい作物なのである。私にはどうも、気の多い癖に、又一つ事に執する癖がありすぎるようである。だが、そう言うてはうそ[#「うそ」に傍点]になる。何事にも飽き易く、物事を遂げたことのない人間なのだけれど、要するに努力感なしに何時までも、ずるずるべったりに、くっついて離れぬという、ふみきりがわるいと言おうか、未練不覚の人間といおうか、ともかく時には、驚くばかり一つ事に、かかわっている。旅行なども、これでわりにする方の部に入るらしいが、一つ地方にばかり行く癖があって、今までに費した日数と、入費をかければ、凡《およそ》日本の奥在家・島陰の村々までも、あらかたは歩いている筈である。それ[#「それ」に
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