又、ひき[#「ひき」に傍線]・へき[#「へき」に傍線])と同じか、違う所があるか、明らかでないが、名称近くて違うから見れば、全く同じものとも言われぬ。日置は、日祀よりは、原義幾分か明らかである。おく[#「おく」に傍点]は後代|算盤《そろばん》の上で、ある数にあたる珠《たま》を定置することになっているが、大体同じ様な意義に、古くから用いている。源為憲の「口遊《くゆう》」に、「術に曰《い》はく、婦人の年数を置き、十二神を加へて実と為し…」だの、「九々八十一を置き、十二神を加へて九十三を得……」などとある。此は算盤を以てする卜法《ぼくほう》である。置く[#「置く」に傍線]が日を計ることに関聯《かんれん》していることは、略《ほぼ》疑いはないようである。ただおく[#「おく」に傍点]なる算法が、日置の場合、如何なる方法を以てするか、一切明らかでないが、其は唯実際方法の問題で、語原においては、太陽並びに、天体の運行によって、歳時・風雨・豊凶を卜知することを示しているのは明らかである。
此様に、日を計ってする卜法が、信仰から遊離するまでには、長い過程を経て来ているだろうが、日神に対する特殊な信仰の表現のあったのは疑われぬ。其が、今日の我々にとって、不思議なものであっても、其を否む訣《わけ》には行かぬ。既に述べた「日《ひ》の伴《とも》」のなつかしい女風俗なども、日置法と関聯する所はないだろうが、日祀りの信仰と離れては説かれぬものだということは、凡《およそ》考えていてよかろう。
其に今一つ、既に述べた女の野遊び・山籠《やまごも》りの風である。此は専ら、五月の早処女《さおとめ》となる者たちの予めする物忌みと、われ人ともに考えて来たものである。だが、初めにも述べた様に、一処に留らず遊歴するような形をとることすらあるのを見ると、物忌みだけにするものではなかったのであろう。一方にこうした日※[#「日/咎」、第3水準1−85−32]《ひかげ》を追う風の、早く埋没した俤《おもかげ》を、ほのか乍《なが》ら窺《うかが》わせているというものである。
昔から語義不明のまま、訣《わか》った様な風ですまされて来た「かげのわずらい」と謂《い》った離魂病なども、日※[#「日/咎」、第3水準1−85−32]を追うてあくがれ歩く女の生活の一面の長い観察をして来た社会で言い出した語ではないか。其でなくては、此病気は、陰
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