て居るのに、氣のついた人はあらうと思ふ。爲恭にも、同じ理由から出た、おなじ氣持ち――音樂なら主題といふべきもの――が出てゐる。私は、此繪の震火をのがれるきつかけを作つた籾山半三郎さんほどの熱意がないと見えて、いまだに集古館へ、この繪を見せて貰ひに出かけて居ぬ。話は、かうである。ある日、一人の紳士が集古館へ現れた。此畫は、ゆつくり拜見したいから、別の處へ出して置いて頂きたいと頼んで歸つた。其とほりはからうて、そのまゝ地震の日が來て、忘れたまゝに、時が過ぎた、と此れが發端である。正《シヤウ》の物を見たら、これはほんたうに驚くのかも知れぬが、寫眞だけでは、立體感を強ひるやうな線ばかりが印象して、それに、むつちりとした肉《シヽ》おきばかりを考へて描いてゐるやうな氣がして、むやみに僧房式な近代感を受けて爲方がなかつた。其に、此はよいことゝもわるいことゝも、私などには斷言は出來ぬが、佛像を越して表現せられた人間といふ感じが強過ぎはしなかつたか、と今も思うてゐる。
この繪は、彌陀佛の腰から下は、山の端に隱れて、其から前の畫面は、すつかり自然描寫――といふよりも、壺前栽を描いたといふやうな圖どりである
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