湯と、山は隔てて居るが、岩代の国の信夫《シノブ》の高湯と、それに此白布と、五里ほどの間に、三つの高湯がある。峡間《ハザマ》の湯でなくて、多少見晴しが利く位置にあるからの称えである。
白布の高湯は、少し前がつまって居るが、其でも、両方から出た端山間に、遠い朝日嶽など言う山の見える日が多い。見渡しの纏って居て、懐しい感じのするのは、何と言っても、信夫の高湯だろう。だが、米沢・新庄・鶴岡などの駅々で見た、宣伝びらでは、今年は信夫の湯に力を入れて評判を立てたようだから、定めてあの山の上の数軒しかない古い湯宿が、立てこんだことだろう。作事小屋・物置部屋などに、頼んで泊めて貰った客などもあるであろうと思う。
最上の高湯は、何にしても、人がこみ過ぎる。出羽奥州の人たちは、湯を娯しむと言うより、年中行事として、尠くとも一週間なり、半月なり、温泉場で暮すと言う風を守っている。そうした村々から、女房たちや若い衆が、大きな荷物を背負って、山を越えて来る。最上の湯は、其ばかりか、温泉その物が、利きそうな気をさせる。其ほど峻烈に膚に沁む。東北には酸川《スカワ》・酸《ス》个湯など、舌に酸っぱいことを意味する名の湯が、大分あるが、我々の近代の用語例からすれば、酸いと言うより、渋いに偏った味である。最上高湯は、狭い山の湯村に驚くばかりの人数が入りこんで居る。宿と宿とが、二階の縁から縁へ跨ぎ越えられるほどに建て詰んでいる。其で居て、何だか茫漠とした感じのあるのが、よさ[#「よさ」に傍点]と謂える湯治場である。
[#ここから2字下げ]
昼貌の花 今日ひと日萎れねば、山の雨気《アマケ》に 汗かきて居り
[#ここで字下げ終わり]
最上の湯でのものだったと思うが、歌の方が却て、少し鄙びた感じを出し過ぎて居るようで、よくない。ひょっとすると、蔵王の山を一つ隔てた向う側の青根温泉で出来たものかも知れない。創作動機など言うものは、瞬間に通り過ぎるもので、こんな部分までも、記憶に残らないことがあるものである。
蔵王山の行者が、峰の精進《ショウジ》をすましての第一の下立《オリタ》ちが、此高湯だとすれば、麓の解禁場《トシミバ》が上《カミ》ノ山に当るわけである。其ほど繁昌して居て、亦年久しい湯治場だろうのに、未に新開地らしい所がある。青い芝山の間に、白い砂地があって、そこが材料置場になったりして居る。思いがけない町裏
前へ
次へ
全7ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング