山のことぶれ
折口信夫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)岨《ソバ》の
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)其|昔《カミ》から
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)くつきり[#「くつきり」に傍点]
[#(…)]:訓点送り仮名
(例)野《ノ》[#(ノ)]宮《ミヤ》
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)まぢ/\
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一 山を訪れる人々
明ければ、去年の正月である。初春の月半ばは、信濃・三河の境山のひどい寒村のあちこちに、過したことであつた。幾すぢかの谿を行きつめた山の入りから、更に、うなじを反らして見あげる様な、岨《ソバ》の鼻などに、さう言ふ村々はあつた。殊に山陽《カゲトモ》の丘根《ヲネ》の裾を占めて散らばつた、三河側の山家は寂しかつた。峠などからふり顧《カヘ》ると、必、うしろの枯れ芝山に、ひなたと陰とをくつきり[#「くつきり」に傍点]照しわける、早春の日があたつて居た。花に縁遠い日ざしも、時としては、二三の茅屋根に陽炎《カゲロフ》をひらつかせることもあつた。気疎《ケウト》い顔に、まぢ/\と日を暮す、日なたぼこりの年よりの姿が、目の先に来る。其は譬喩《タトヘ》ではなかつた。豊橋や岡崎から十四五里も奥には、もう、かうした今川も徳川も長沢・大久保も知らずに、長い日なたのまどろみを続けて来た村があるのだ。
青やかな楚枝《ズハエ》に、莟の梅が色めいて来ると、知多院内の万歳が、山の向うの上国《ジヤウコク》の檀那親方を祝《ホ》き廻るついでに、かうした隠れ里へも、お初穂を稼ぎに寄つた。山坂に馴れた津島天王の神人も、馬に縁ない奥在所として択り好みをして、立ち廻らない処もあつた。
日本人を寂しがらせる為に生れて来たやうな芭蕉も、江戸を一足踏み出すと、もう大仰に人懐しがつて居る。奥州出羽の大山越えに、魄落すまでの寂寥を感じた。人生を黄昏化するが理想の鏡花外史が、孤影蕭条たる高野聖の俤をぽつゝり浮べた天生の飛騨道も、謂はゞ国と国とを繋ぐ道路の幹線である。雲端に霾《ツチフ》る、と桃青居士の誇張した岩が根道も、追ひ剥ぎの出るに値する位は、人通りもあつたのである。
鶏犬の遠音を、里あるしるしとした詩人も、実は、浮世知らずであつた。其口癖文句にも勘定に入れて居ない用途の為に、乏しい村人の喰ひ分を裾分けられた家畜が、斗鶏《トケイ》や寝ずの番以外に、山の生活を刺戟して居た。
私は、遠州奥山の京丸を訪れた時の気分を思ひ出して見た。村から半道も、木馬路《キンマミチ》を上つて、一つ家に訪ねた故老などの、外出《ヨソデ》還りを待つ間の渋茶が促した、心のやすらひから。京丸なども、もう実は、わざ/\見物に行く値打はない程開けて居た。
駿・遠の二州の源遠い大河の末の、駅路と交叉したあたりには、ほんとうは大昔から山の不思議が語られて居た。武家の世渡りに落伍した非御家人《ヒゴケニン》の、平野を控へた館の生活を捨てゝからの行動が、其とてつもなく[#「とてつもなく」に傍点]古い伝説の実証に、挙げられる様になつて行つた。
飛騨・肥後・阿波其他早耳の琵琶坊《ボサマ》も、足まめな万歳も、聴き知らぬ遠山陰の親方・子方の村が、峯谷隔てた里村の物資に憧れ出す時が来た。其は、地方の領家《リヤウケ》の勢力下から逃げこんだ家の由緒を、完全に忘れ果てゝからであつた。其|昔《カミ》から持ち伝へた口立ての系図には、利仁・良文や所縁《ツガ》もない御子《ミコ》様などを、元祖と立てゝゐた。其上、平家・盛衰記を端山の村まで弾きに来る琵琶房主があつた。時には、さうした座頭の房《ボン》を、手舁き足舁き連れこんで、隠れ里に撥音を響かせて貰うたりもした。山彦も木精《コダマ》もあきれて、唯、耳を澄してゐる。さうした山の幾夜が偲ばれる。日が過ぎて、山の土産をうんと背負はされた房様《ボサマ》が、奥山からはふり出された様な姿で山口の村へ転げ込んで、口は動かず、目は蠣の様に見つめたきりになつて居たりする。山人の好奇《モノメデ》に拐された座頭が、いつか、山の岩屋の隠れ里から、隠れ座頭がやつて来る、など言ふ話を生んだのであらう。
さうした出来心から降つて湧いた歴史知識が、村の伝へに元祖と言ふ御子様や、何|大将軍《ダイシヤウグン》とかもすれば、何天子や某の宮、其おつきの都の御大身であつたかと、村の系図の通称や官名ばかりの人々のほんとうの名が知れて、山の歴史はまともに明りを受けた。焼畑《コバ》や岩地《ソネ》うつたつきも、張り合ひがついて来る。盲僧の軍記語りの筋は、山にも里にも縁のなくなつたずつとの昔の、とつと[#「とつと」に傍点]の遠国《ヲンゴク》の事実と聞きとる習慣があつたのなら、かうした事は日本国中の山家と言ふ
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