山の神と村人との間の感情が、以前よりは、申し合せのつきさうな理会ある程度まで、柔らいで来たのだ。村の生活を基礎とした国の生活、其中心なる宮廷、古く溯る程、神を迎へ神を祭る場所と言ふ義の明らかに見える祭りの場所《ニハ》としての宮廷にも、春の訪れに来向ふ者は、常世神でなく、山の神となつた。初春ばかりか、宮廷の祭り日や、祓への日などには、きつと、かはたれ時の御門《ミカド》におとなひ[#「おとなひ」に傍線]の響きを立てた。村々の社々にも、やはり時々、山の神が祭りの中心となつて、呪言を唱へ、反閇《ヘンバイ》を踏み、わざをぎ[#「わざをぎ」に傍線]の振り事、即神遊びを勤めに来た。
さうした祭り日に、神を待ち迎へる、村の娘の寄り合うて、神を接待《イツ》く場所《ニハ》が用意せられた。神の接待場《イチニハ》だから、いち[#「いち」に傍線]と言はれて、こゝに日本の市の起原は開かれた。山の神は、勿論、里の成年戒を受けた後の浄い若者の扮装姿《ヤツシ》であつた。常世神がさうであつた様に。後、漸く山の主神に仕へる処女を定めて、一人野山に別居させる様になつて、野《ノ》[#(ノ)]宮《ミヤ》の起りとなつた。山の神に仕へる巫女が、野[#(ノ)]宮に居て、祭り日には神に代つて来る様にもなつた。山の神は里の神人の一時の仮装ではあるが、山の神の信仰が高まつて、山の主神の為に、山の嫁御寮《ヨメゴリヨ》が進められたのである。
祭り日の市場《イチ》には、村人たちは沢山の供へ物を用意して、山の神の群行或は山姥の里降りを待ち構へた。山の神・山姥の舞踊《アソビ》の採《ト》り物《モノ》や、身につけたかづら[#「かづら」に傍線]・かざし[#「かざし」に傍線]が、神上げの際には分けられた。此を乞ひ取る人が争うて交換を願ふ為に、供へ物に善美を尽す様になつた。此山の土産は祝福せられた物の標《シルシ》であつて、山人の山づと[#「山づと」に傍線]は此である。此が、歌垣が市場で行はれ、市が物を交易する場所となつて行く由来である。さうして、山人・山姥が里の市日に来て、無言で物を求めて去つた、と言ふ伝説の源でもある。其時の山づと[#「山づと」に傍線]を我勝ちに奪ひ合ふ風が、後のうそかへ[#「うそかへ」に傍線]神事などの根柢をなしてゐ、又、祭りの舞人の花笠などを剥ぎ取る風をも生み出したのである。
山づと[#「山づと」に傍線]は何なに。山の蔓草や羊歯の葉の山縵《ヤマカヅラ》や、「あしびきの山の木梢《コヌレ》」から取つたといふ寄生木《ホヨ》の頭飾《カザシ》や、山の立ち木の皮を剥いで削り掛けた造り花などであつた。かうして易《カ》へられた山づと[#「山づと」に傍線]は、初春の家の門や、家内に懸けられた。牀柱には山かづら、戸口や調度に到るまで、山へ行つた様に見せる山草、軒に削り掛け、座敷に垂す繭玉・餅花・若木《ワカギ》の作枝《ツクリエダ》が、古くして新しい年の始めの喜びを衝昂《コミア》げて来るのも、其因縁が久しいのだ。
此三州の山家の門松は、東京などのとは違つて居た。さう言へば、歳神なども常世神や先祖のみ霊に近づいた考へで、祀られて居た。さう云ふ話に這入らない中に、春の初めの此「言《イ》ひ立《タ》て」も、めでたく申しをさめねばならなくなつた。「たう/\たらり」長々しいことを何より先にする言祝《コトホ》ぎの言ひ癖が出たと思うて、読者に於ても、初笑ひを催して頂きませう。
底本:「折口信夫全集 2」中央公論社
1995(平成7)年3月10日初版発行
底本の親本:「古代研究 民俗学篇第一」大岡山書店
1929(昭和4)年4月10日発行
初出:「改造 第九巻第一号」
1927(昭和2)年1月
※底本の題名の下に書かれている「昭和二年一月「改造」第九巻第一号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
※訓点送り仮名は、底本では、本文中に小書き右寄せになっています。
入力:小林繁雄
校正:多羅尾伴内
2003年12月27日作成
2004年1月25日修正
青空文庫作成ファイル:
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