おつしやる御言葉が、精霊或は、精霊から成り上りの神に対して、高いものから、低い者に云ひ下す言葉になるのは、当然であつた。それで神の位が段々昇進するのは、かうした、信仰から来た自然であつて、次第に、天津神に近づかされるのである。処が、延喜式などを見ると、已《すで》に変な所が見える。天皇が、神に対して、非常に丁寧である。天皇が、祝詞を下されるといふ考へが、変化して来てゐるのである。即、ほんとうの祝詞では無くなつて来てゐる。それで延喜式祝詞が、古い祝詞で無い事は、此によつても明らかである。
天つ祝詞は、高天原から伝つてゐるものだ、といふ信仰を以て、唱へ伝へられて来てゐる。唯今、天つ祝詞といふ言葉の這入つてゐるものは、主として、斎部祝詞であるが、これは鎮詞に属するものである。斎部は、天皇に対する雑役に与つてゐた。又中臣大祓詞、これは、斎部祝詞に似てゐるが、此中に、天つ祝詞といふ言葉がある。此天つ祝詞といふ言葉は、常に「あまつのりとの太のりとごと」と続く。此中の「太」は、単に、天つ祝詞の美称と考へられて来てゐるが、私は、壮重なのりと[#「のりと」に傍線]に於いて、唱へられる言葉、即天つ宣《ノ》り処《ト》に於ける、壮重なのりとごと[#「のりとごと」に傍線]ゝ解する方がよいとおもふ。天つ祝詞を唱へる個処は、動作を伴ふところであるらしい。其動作をするのが、斎部の役人達であつた。これを唱へると、不思議なことがあらはれて来る。
天つ祝詞は、大体に短くて、諺に近いものである。即、神の云うた事のえつせんす[#「えつせんす」に傍線]のやうなものである。が私は、天つ祝詞が、祝詞の初めだとは思はない。ずつと昔からの、祝詞の諸部分が脱落して、一番大事なものだけが、唱へられてゐたのが、天つ祝詞であるとおもふ。一寸考へると、単純から複雑に進むのが、当然の様に思はれるが、複雑なものを単純化するのが、我々の努力であつた。それで、極めて端的な命令の、或は呪ひの言葉が、天つ祝詞であつたが、其が段々、世の中に行はれて来ると、諺になる。故に私は、此と諺との起原は、同一なものだと考へてゐる。だから諺は、命令的である。元はその句は、二句位であつて、三句に成ると、諺では無く、歌になつた。古事記・日本紀などを見ても、諺は、二句を本体としてゐる。それで、今の諺の発達の途には、天つ祝詞があるわけである。
口頭の詞章には、歌と
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