元祖以来の霊の、村へ戻つて来るのが、年改まる春のしるし[#「しるし」に傍線]であつた。
其が後には、仏説を習合して、七月の盂蘭盆を主とする様になつた。だが、其以前から既に、秋の御霊迎《ミタマムカ》へは、本来の春の霊祭《タマヽツ》りに対照して、考へ出されてゐたのであつた。常世神の来訪を忘れて了ふ様になると、春来る御霊《ミタマ》は歳神《トシガミ》・歳徳様《トシトクサマ》など言ふ、日本陰陽道特有の廻り神になつて了うた。さうして肝腎の霊祭りは秋が本式らしくなつた。坊様に、棚経を読んで貰はねば納らぬ、と言つた仏法式の姿をとつて行つた。
極《ゴク》の近代まであつた、不景気の世なほしに、秋に再び門松を立てたり、餅を搗いたりした二度正月の風習は、笑ひ切れない人間苦の現れである。が、此とて由来は古いのである。ことし[#「ことし」に傍線]型の暦はわるかつたから、こそ[#「こそ」に傍線]型の暦で行かうと言ふのである。
だが、其一つ前の暦はことし[#「ことし」に傍線]だけであつた。さう言ふ一年より外に、回顧も予期もなかつた邑落生活の記念が、国家時代まで、又更に近代まで、どういふ有様に残つてゐたかを話したい。
二
鹿島の言触《コトブ》れも春の予言に歩かなくなり、三島暦の板木も、博物館物になりさうになつて了うた世の中である。神宮司庁の大麻暦《タイマレキ》さへ忘れた様な古暦のくり言《ゴト》も、地震の年をゆり返した様な寂しい春のつれ/″\を、も一つ飜《カヘ》して、常世の国の初だよりの吉兆を言ひ立てる事になるかも知れない。
洋中の孤島に渡らずとも、おなじ「つれ/″\」は、沖縄本島にも充ち満ちてゐる。首里王朝盛時なら、生きながら髯長矯風大主《ヒヂナガユナホシノウフヌシ》とでも、今頃は神名を島人から受けて居さうな、島のわが親友は、島の朋党からけぶたがられて、東京へ出て来た。あんな恩知らずの人々の為に、其でも懲りずに、まだ書いてゐる。先年出版した「孤島苦の琉球」なども、千何百年を所在なく暮した島人の吐息を、一人で一返に吐き出した様な、勝ち方の国の我々をさへ、寂しがらせる書物である。首里宮廷の勢力の強く及んだ島尻・中頭は其でもよかつた。君主の根じろであつた島の北部|国頭《クニガミ》郡には、やはり伝来の「さう/″\しさ」が充ちてゐて、今ではそろ/\はけ口[#「はけ口」に傍点]を探し出してゐる。さ
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