瓜子姫子《ウリコヒメコ》の瓜など皆、水によつて漂ひついた事になつてゐる。だが此は、常世から来た神の事をも含んであるのだ。瓢・うつぼ舟・無目堅間《マナシカタマ》などに入つて、漂ひ行く神の話に分れて行く。だから、何れ、行かずとも、他界の生を受ける為に、赫耶姫は竹の節間《ヨノナカ》に籠つてゐた。此籠つてゐる、異形身を受ける間の生活の記憶が人間のこもり[#「こもり」に傍線]・いみ[#「いみ」に傍線]となつた。いみや[#「いみや」に傍線]にひたやこもり[#「ひたやこもり」に傍線]することが、人から身を受ける道と考へられた。尚厳重なものは、衾に裹まれて、長くゐねばならなかつた。
かうした殻皮などの間にゐる間が死であつて、死によつて得るものは、外来のある力である。其威力が殻の中の屍に入ると、すでる[#「すでる」に傍線]といふ誕生様式をとつて、出現することになる。正確に言へば、外来威力の身に入るか入らぬかゞ境であるが、まづ殻をもつて、前後生活の岐れ目と言うてよい。だから別殊の生を得るのだ。一方時間的に連続させて考へる様になると、よみがへり[#「よみがへり」に傍線]と考へられるのである。すでる[#「すでる」に傍線]は「若返る」意に近づく前に「よみがへる」意があり、更に其原義として、外来威力を受けて出現する用語例があつたのである。
大国主は形から謂へば、七度までも死から蘇つたものと見てよい。夜見の国では、恋人の入れ智慧で、死を免れてゐる。此は死から外来威力の附加を得たことの変化であらう。智恵も一つの外来威力を与ふるところだつたのである。
よみがへり[#「よみがへり」に傍線]の一つ前の用語例が、すでる[#「すでる」に傍線]の第一義で、日本の「をつ」も其に当る。彼方から来ると言ふ義で、をち[#「をち」に傍線]の動詞化の様に見えるが、或は自らするををつ[#「をつ」に傍線]、人のする時ををく[#「をく」に傍線](招)と言うたのか。さうすれば、語根「を」の意義まで溯る事が出来よう。をち[#「をち」に傍線]なる語が、人間生活の根本を表したらしい例は、をちなし[#「をちなし」に傍線]と言ふ語で、肝魂を落した者などを意味する。柳田国男先生は、まな[#「まな」に傍線]なる外来魂を稜威《イツ》なる古語で表したのだと言はれたが、恐らく正しい考へであらう。いつ[#「いつ」に傍線]・みいつ[#「みいつ」に傍線]
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