でゆん[#「すでゆん」に傍線]などに近い形で、一般に使はれてゐる事が知れる。謂はゞ沖縄の標準語である。宮良君の苦労によつて訣つた事は、しぢゆん[#「しぢゆん」に傍線]が唯の「生れる」ことでないらしい事である。今度、宮良君が島々を歩く時には、「若返る」「沐浴する」「禊する」などに当る方言を集めて来てくれる様に頼まう。
清明節のしぢ水[#「しぢ水」に傍線]に、死んだ蛇がはまつたら、生き還つて這ひ去つた。其がしぢ水[#「しぢ水」に傍線]の威力を知つた初めだと説くのが、先島一帯の若水の起原説明らしい。此語は其以前ねふすきい[#「ねふすきい」に傍線]さんも、宮古・離島に採訪して来た様である。ある種の動物にはすでる[#「すでる」に傍線]と言ふ生れ方がある。蛇や鳥の様に、死んだ様な静止を続けた物の中から、又新しい生命の強い活動が始まる事である。生れ出た後を見ると、卵があり、殻がある。だから、かうした生れ方を、母胎から出る「生れる」と区別して、琉球語ではすでる[#「すでる」に傍線]と言うたのである。気さくな帰依府びとは、しぢ水[#「しぢ水」に傍線]とも若水とも言ふから、すでる[#「すでる」に傍線]・しぢゆん[#「しぢゆん」に傍線]に若返ると言ふ義のある事を考へたのである。さう説ける用例の、本島にもあつたことを述べた。
さう説くのが早道でもあり、ある点まで同じ事だが、論理上に可なりの飛躍があつた。すでる[#「すでる」に傍線]は母胎を経ない誕生であつたのだ。或は死からの誕生(復活)とも言へるであらう。又は、ある容れ物からの出現とも言はれよう。しぢ水[#「しぢ水」に傍線]は誕生が母胎によらぬ物には、実は関係のないもので、清明節の若水の起原説明の混乱から出てゐる事を指摘したのは、此為である。すでる[#「すでる」に傍線]ことのない人間が、此によつてすでる[#「すでる」に傍線]力を享けようとするのである。

     四

なぜ、すでる[#「すでる」に傍線]ことを願うたか。どうしてまた、此から言ふ様に、すでる[#「すでる」に傍線]能力のある人間が間々あつて、其が人間中の君主・英傑に限つてあることなのか。此説明は若水の起原のみか、日・琉古代霊魂崇拝の解説にもなり、其上、暦法の問題・祝詞の根本精神・日本思想成立の根柢に横《よこたは》つた統一原理の発見にもなるのである。
すでる[#「すでる」に傍線]
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