語源の説明には、落し咄がたくさんある。昔の言海には文典が附録についていた。この文典は非常によいものであるにかかわらず、本文のほうの語源はいい加減のものがある。語源は誰でもちょっと面白く考えられるが、非常に広い知識と機会とが必要だ。いつ考えても語源の考えが浮かんでくるというわけにいかない。語源を考えるには、科学的に行なわれぬ点がある。ことばができたときから、意義が飛躍してしまっている。飛躍して変わってしまった意義の語をもって、その語のもとを探ることはできない。証拠になるもとの形のものが残っているということは考えにくいうえに、いまの形とぴったりいくものは出てこない。だから、機会に行きあった人が幸運に語源をつかまえるだけだ。科学的な態度で押していったところで、かならずしも成績をあげるということにならない。ほんとうはむつかしいことだ。そのかわり享楽的になる。侮辱されても仕方のないような研究を出している。外国語を十分に知り、科学的態度をはずさない人がやっても、やはり駄目である。新村出氏のような方でも、やはり、いつもよいわけではない。ただ、信頼できるというだけで、皆が皆まで正しいといえないことにな
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