詩語としての日本語
折口信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)注《すす》ぎて

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二三|个《か》国

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)われ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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   銘酊船

[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
さてわれらこの日より星を注《すす》ぎて乳汁色《ちちいろ》の
海原の詩《うた》に浴しつゝ緑なす瑠璃を啖《くら》ひ行けば
こゝ吃水線は恍惚として蒼ぐもり
折から水死人のたゞ一人《ひとり》想ひに沈み降り行く

見よその蒼色《あをぐもり》忽然として色を染め
金紅色《きんこうしよく》の日の下にわれを忘れし揺蕩《たゆたひ》は
酒精《アルコル》よりもなほ強く汝《なれ》が立琴《リイル》も歌ひえぬ
愛執の苦《にが》き赤痣を醸すなり
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから(地から)2字上げ]
アルチュル・ランボオ
小林秀雄
[#ここで字上げ終わり]

この援用文は、幸福な美しい引例として、短い私の論文の最初にかかげるのである。この幸福な引証すら、不幸な一面を以て触れて来るということは、自余の数千百篇の泰西詩が、われわれにこういう風にしか受け取られていないのだということを示す、最もふさわしい証拠になってくれている。象徴派の詩篇の、国語に訳出せられたものは、実に夥《おびただ》しい数である。だが凡《およそ》、こんな風にわれわれの理会力を逆立て、穿《あなぐ》り考えて見ても結局、到底わからない、と溜息《ためいき》を吐かせるに過ぎない。こう言う経験を正直に告白したい人は、ずいぶん多いのではないかと思うのである。
小林秀雄さんの[#「小林秀雄さんの」は底本では「 小林秀雄さんの」]翻訳技術がこれ程発揮せられていながら、それでいて、原詩の、幻想と現実とが並行し、語の翳と暈との相かさなり靡《なび》きあう趣きが、言下に心深く沁《し》み入って行くと言うわけにはいかない。此は唯この詩の場合に限ったことではなく、凡象徴派の詩である以上は、誰の作品、誰の訳詩を見ても、もっと難解であり、晦渋《かいじゅう》であるのが、普通なのである。そう言うことのあった度に、早合点で謙遜《けんそん》なわれわれは、理会に煉熟《れんじゅく》していない自分を恥じて来たものだ。併し其は、私たちの罪でもなく、又多くの場合、訳述者の咎《とが》でもないことが、段々わかって来た。それは国語と国語とが違い、又国語と国語とにしみこんでいる表現の習慣の違いから来ている。日本の国語に翻《うつ》し後《あと》づけて行った詩のことばことばが、らんぼお[#「らんぼお」に傍線]やぼおどれいる[#「ぼおどれいる」に傍線]や、そう言った人の育って来、又人々の特殊化して行ったそれぞれの国語の陰影を吸収して行かないのである。
われわれの友人の多くは、外国の象徴詩を国語に翻訳したその瞬間、自分たちの予期せなかった訳文の、目の前に展《ひろが》っているのを見て、驚いたことであろう。その人が原作に忠実な詩人であればある程、訳詩がちっとも、もとの姿をうつしていないことに悲観したことが察せられる。それほど日本語は、象徴詩人の欲するような隈々《くまぐま》を持っていないのである。単に象徴性能のある言語や詞章を求めれば、日本古代の豊富な律文集のうちから探り出すことはそう困難なことではない。だが、所謂《いわゆる》象徴詩人の象徴詩に現れた言語の、厳格な意味における象徴性と言うものは、実際蒲原有明さんの象徴詩の試作の示されるまでは、夢想もしなかったことだった。私はまだ覚えている。そうした、氏の何番目かの作物に、「朝なり、やがて濁り川……」(後、「朝なり、やがて川筋は……」と言う風に改ったと覚えている)をもって始まる短篇の発表のあった時、我々の心はある感情の籠《こも》ったとよみを挙げた、あの感動の記憶を失わないでいる。ただ一種の心うごき――楽しいとも不安なとも、何とも名状の出来ぬ動揺の起ったものであった。もっと我々が静かに思い見る事が出来たのだったら、日本語が全く経験のない発想の突発に、驚きのそよぎを立てていたかも知れないのである。それでも、蒲原氏、ひきつづいて薄田泣菫さん以下の人々の象徴詩に、相当にわれわれにも理会の出来るものが現れた。それを今くり返して見ると、そう言うのは、多くは、譬喩《ひゆ》詩に過ぎなかった。われわれは、譬喩詩の持っている鍵をもって、象徴詩を開いたものと思い違えていたこともあったのである。その当時上田敏さん等の仲間で、蒲原氏の創作詩の解き難い部分をふらんす[#「ふらんす」に傍線]語に翻訳して見て初めて理会したことのあったと言う逸話すら、残っている位である。併し今考えれば、これは笑い事ではない。象徴なれのしていなかった日本語が、蒲原氏の持った主題をとどこおりなく胎《はら》む事の出来る筈はない。その後やがて、少しずつ象徴表現になれた国語は、幾つかの本格的な象徴詩を生み出した。そう言う今日になって見れば、今の国語が、ある点まで象徴性能を持つようになった形において、昔の蒲原氏・薄田氏等の象徴詩を、作者自身、企図に近く会得するようになって来たのである。国語になじまない象徴詩の精神を、こなれのよい国語の排列の間に織り込もうとする人が、どうしても出て来なければならなかった。上田敏さんは、多くの象徴詩篇を翻訳して、「海潮音」を撰《せん》したのである。これが、日本象徴詩の早期に於ける美しいしあげ[#「しあげ」に傍点]作業であった。全くの見物にすぎなかったわれわれの見る所では、本道に象徴と言う事を人々が理会したのは、これからの事だった。物訣《ものわか》りのよい当時の評論家角田浩々歌客すら、象徴と、興体の詩とを一つにしていた時代である。上田氏の為事《しごと》は、多くの若い象徴詩人のよい糧となって行った。けれども多くの詩篇は、あまり表現の手馴れた、日本的のものになりすぎていて、どうかすると、平明な抒情詩ででもある様に見えたのであった。三木露風氏・北原白秋氏その他の人々の象徴詩と言われたものも、だから上田氏式な象徴詩の理会に立って出来たものであった訣《わけ》である。だがそれでいて、誰も満足はしていなかった。おそらくこのほかにまだ象徴詩の領分があるのだろうと思っていたらしい事は、考えられる。何よりも讃《たた》うべきは、若い時代にすぐれた感受を持った詩人たちの多かった事である。その後四十年、日本詩壇では、其昔詩の若かった時代のままに、象徴詩は栄えている。此間に、われわれが眺めていた象徴詩の動きはどうだったろう。詩人たちはあまり日本化せられた象徴詩が、泰西の象徴詩と縁遠くなっている事を感じた。これを救うには、詩語或は詞章の文体に限って、ふらんす[#「ふらんす」に傍線]其外の象徴派詩人のもつ言語・詞章そのままにしたてるほかはないと考えた。日本語を欧洲の文体にすると言う事は、詩自身ふらんす[#「ふらんす」に傍線]語・どいつ[#「どいつ」に傍線]語その外の語で書くと言うのと同じ事であって、日本語で詩を作る事にはならない。国語は、そうした象徴詩の国々と、語族が違い過ぎていた。其上ろうま[#「ろうま」に傍線]方言の国境外に遠く離れている日本語による詩人であるがために、――譬《たと》えば、りるけ[#「りるけ」に傍線]が故郷以外の二三|个《か》国の言葉で表現したように、又極めて稀《まれ》な例として、ヨネ・ノグチがあめりか[#「あめりか」に傍線]英語で詩を書いた様には行かなかった。それで苦しい中から、最、適当な方法が考え出されて来た。国語に訳された泰西の詩の翻訳文体を学ぶ事である。相当に日本化した、と言っても直訳手法に沿うた文体は、上田氏の「海潮音」の訳詩の様にはこなれていない。其所にある程度まで、西洋象徴詩のおもかげが見られようと言うものである。象徴派詩人たちの訳詩集などに出て来る文体或は語句、言いかえれば、国語でありながら、詩の用語なる古典語や、標準語とは違った印象を与える詩語と文体が、目に立って多くなって来た。それに向けて更に出来るだけ自分の表現を近づけて行くと謂《い》った方法が考えられて来たのである。これが成功すれば、外国語の文脈にうつして見た第二の国語の流れが現れて来ることになる訣《わけ》である。だが最初にあげた小林氏の訳詩が見せているように、そう言う文体になじんだ専門詩人だけには、ある点まではやっと通じる文体とはなって来たが、其他一切の国語使用者――国民には、ただ印象の錯雑した不思議な文体としか感ぜられぬものになった。この儘《まま》に進んで行けば、専門家以外にも承認せられる文体が出来るかも知れぬが、急にそうした自信は持てない。極めて晦渋《かいじゅう》な第二国語として、殆、詩人圏だけに通用する階級語のようになって行くのではないかと思う。平易明快なばかりが、詩の価値ではない。白楽天・ろんぐふぇろう[#「ろんぐふぇろう」に傍線]――が軽蔑《けいべつ》される一面も、其点である。併し何としても、詩を生む心の豊かさから、いろんな表現が派生して、単純な理会者には受け取りにくいものがあると言う事も恥ずべき事ではない。併し二つの国語の接触・感染・影響と言う様な直接な効果ではなく、一種不思議な翻訳文が間に横わっていて、それの持つ原語とも、国語ともどちらにつかずの文体が、基礎になっているのでは、何としても健全とは言えぬ。我々の象徴詩に対して持つ情熱は決してそうしたえきぞちしずむ[#「えきぞちしずむ」に傍線]を対象としているのではない。すでに有明・泣菫以来半世紀に近い象徴表現の努力がいまだに方法的に完成しないその前に、気移りしかけているのは誇るべき事ではない。如何にしても、時を経ただけの効果を収め得ていない。これは、詩語たる国語の障壁によるものである。その詩語は、実体からうつしたものでなく、その実体の影を写したものと言うべき用語と文体から出来ている所にあると思う。けれども詩語はどこまでも、第一国語と同じものでなくてはならぬと言う訣ではなく、第二国語として独立しないまでも、第一国語に対してもっと自由であってよい訣だ。そこに詩語の権威がある。第一国語から離れすぎていると言う事が誇るべき事でないと同じに、それに近いと言う事が必しも詩語の強みになる訣でもない。一口に言えば、詩語が現代語や近代語と同じものでなければならぬと言うことも、この理由から声高く主張する事は出来ない。われわれの生命をゆする程、われわれの感情に直截《ちょくせつ》なものは、今使われている国語なのだから、詩語と日常語とが同じであると言う事は、一通りも二通りも考えてよいことだ。だが多く日常の第一国語は、詩語としての煉熟《れんじゅく》を経ていない。ただ生きたままの語である。この日常生活には極度に生活力をもった第一国語の生活力を、詩語としての生活力に換算するのが、今日の詩人の為事《しごと》でもあり、大きな期待でもある。それの望まれない凡庸人にとっては、日常語は単なるまるたん棒である。丸太棒のもつ素朴な外貌に幻惑せられて、第一国語即詩語説を主張するだけなら、甚しい早合点である。だが場合によっては、現在の第一国語のほかに、用いて効果の期待出来ない題材がある。其は唯現実の生活を表現することにおいてのみ意味のある場合である。だが其すら、時としては、技術者の習練によって、第二国語――一層|溯《さかのぼ》って詩語としての鍛錬《たんれん》を経た古語を用いて、効果をあげることがある。だがその場合は、現実のけばけばしさ、生なましさは、静かに底に沈んで柔かな光を放つであろう、が、これは一種のあなくろにずむ[#「あなくろにずむ」に傍線]に価値を置いて作る時に限るものである。これで見ても、詩は必しも現実の言葉を以て、表現するだけではなく、古語を置き替える事も自由なのだから、其所に現れて
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