決してそうしたえきぞちしずむ[#「えきぞちしずむ」に傍線]を対象としているのではない。すでに有明・泣菫以来半世紀に近い象徴表現の努力がいまだに方法的に完成しないその前に、気移りしかけているのは誇るべき事ではない。如何にしても、時を経ただけの効果を収め得ていない。これは、詩語たる国語の障壁によるものである。その詩語は、実体からうつしたものでなく、その実体の影を写したものと言うべき用語と文体から出来ている所にあると思う。けれども詩語はどこまでも、第一国語と同じものでなくてはならぬと言う訣ではなく、第二国語として独立しないまでも、第一国語に対してもっと自由であってよい訣だ。そこに詩語の権威がある。第一国語から離れすぎていると言う事が誇るべき事でないと同じに、それに近いと言う事が必しも詩語の強みになる訣でもない。一口に言えば、詩語が現代語や近代語と同じものでなければならぬと言うことも、この理由から声高く主張する事は出来ない。われわれの生命をゆする程、われわれの感情に直截《ちょくせつ》なものは、今使われている国語なのだから、詩語と日常語とが同じであると言う事は、一通りも二通りも考えてよいことだ。
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