決してそうしたえきぞちしずむ[#「えきぞちしずむ」に傍線]を対象としているのではない。すでに有明・泣菫以来半世紀に近い象徴表現の努力がいまだに方法的に完成しないその前に、気移りしかけているのは誇るべき事ではない。如何にしても、時を経ただけの効果を収め得ていない。これは、詩語たる国語の障壁によるものである。その詩語は、実体からうつしたものでなく、その実体の影を写したものと言うべき用語と文体から出来ている所にあると思う。けれども詩語はどこまでも、第一国語と同じものでなくてはならぬと言う訣ではなく、第二国語として独立しないまでも、第一国語に対してもっと自由であってよい訣だ。そこに詩語の権威がある。第一国語から離れすぎていると言う事が誇るべき事でないと同じに、それに近いと言う事が必しも詩語の強みになる訣でもない。一口に言えば、詩語が現代語や近代語と同じものでなければならぬと言うことも、この理由から声高く主張する事は出来ない。われわれの生命をゆする程、われわれの感情に直截《ちょくせつ》なものは、今使われている国語なのだから、詩語と日常語とが同じであると言う事は、一通りも二通りも考えてよいことだ。だが多く日常の第一国語は、詩語としての煉熟《れんじゅく》を経ていない。ただ生きたままの語である。この日常生活には極度に生活力をもった第一国語の生活力を、詩語としての生活力に換算するのが、今日の詩人の為事《しごと》でもあり、大きな期待でもある。それの望まれない凡庸人にとっては、日常語は単なるまるたん棒である。丸太棒のもつ素朴な外貌に幻惑せられて、第一国語即詩語説を主張するだけなら、甚しい早合点である。だが場合によっては、現在の第一国語のほかに、用いて効果の期待出来ない題材がある。其は唯現実の生活を表現することにおいてのみ意味のある場合である。だが其すら、時としては、技術者の習練によって、第二国語――一層|溯《さかのぼ》って詩語としての鍛錬《たんれん》を経た古語を用いて、効果をあげることがある。だがその場合は、現実のけばけばしさ、生なましさは、静かに底に沈んで柔かな光を放つであろう、が、これは一種のあなくろにずむ[#「あなくろにずむ」に傍線]に価値を置いて作る時に限るものである。これで見ても、詩は必しも現実の言葉を以て、表現するだけではなく、古語を置き替える事も自由なのだから、其所に現れて
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