来るものも、あなくろにずむ[#「あなくろにずむ」に傍線]と言い棄てられぬことが多い。語自身が論理的でないことを示すようなものではない。言いかえれば、一種えきぞちっく[#「えきぞちっく」に傍線]な感情を持たせること、又それよりはもっと正しげに見える詩の古くからの習慣から割合いに高く評価せられて来た、其反感から、結果として逆に古語による文体は、実質以上に軽蔑《けいべつ》せられている。併し現代語で――例えば中世以前の抒情詩を書く事は、論理的には正しくない様に見えるにかかわらず、今の詩人は多く之を正しいものと認めるだろう。それは今人としての有力な一つの表現様式の文体であるから、拒む理由が無いのである。われわれが現実詩をば、古語・中世語又は、近古語で列《つら》ねるのも、其と同じ事で、やはり一つの文体として認めねばならぬ。そこにあなくろにずむ[#「あなくろにずむ」に傍線]を考えるのは、第一国語としての錯誤感を及して来る訣なのである。古語が詩の文体の基礎として勢力を持った事が長く、詩は此による外はないとまで思われていた時期があまり続いたのである。古語表現を否定しようとするのは、その長い圧倒的な古語の勢力の時代に対する不快感を、まだ持ちつづけている訣なのである。
われわれにとって現代文が一番意味のある訣は、われわれが生存の手段として生命を懸けており、又それを生しも滅しもする程の関聯《かんれん》を持っている言葉は、現代語以外にはない。だからわれわれが生命を以てうちかかってゆく詩語は、現代語である訣なのである。これは単なる論理ではない。われわれの事実であり、われわれの生命である。この生命を持たない言語を、詩語として綴った場合には、それが古語でなくて、現代語であったとしても、其は全く意味のない努力になる。唯古語は近世又は中世以前の言葉であり、当然詩語としても生い先短い語である――人は詩語を第一国語にひき直してみて、或はすでに滅びた言葉として見ることがある。それは誤りであるとともに、生命のわれわれと強くつながっている現代語が、詩語としての生命を失った場合には、目もあてられないものとなる。それは言うまでもなく、第一国語に還元するからである。或は初めから詩語として用いられずに、対話の中のごろた石・丸太棒として転がっているに過ぎないからである。私などは、今の作者の中、最古語を使う者の内に這入《は
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