に傍線]語に翻訳して見て初めて理会したことのあったと言う逸話すら、残っている位である。併し今考えれば、これは笑い事ではない。象徴なれのしていなかった日本語が、蒲原氏の持った主題をとどこおりなく胎《はら》む事の出来る筈はない。その後やがて、少しずつ象徴表現になれた国語は、幾つかの本格的な象徴詩を生み出した。そう言う今日になって見れば、今の国語が、ある点まで象徴性能を持つようになった形において、昔の蒲原氏・薄田氏等の象徴詩を、作者自身、企図に近く会得するようになって来たのである。国語になじまない象徴詩の精神を、こなれのよい国語の排列の間に織り込もうとする人が、どうしても出て来なければならなかった。上田敏さんは、多くの象徴詩篇を翻訳して、「海潮音」を撰《せん》したのである。これが、日本象徴詩の早期に於ける美しいしあげ[#「しあげ」に傍点]作業であった。全くの見物にすぎなかったわれわれの見る所では、本道に象徴と言う事を人々が理会したのは、これからの事だった。物訣《ものわか》りのよい当時の評論家角田浩々歌客すら、象徴と、興体の詩とを一つにしていた時代である。上田氏の為事《しごと》は、多くの若い象徴詩人のよい糧となって行った。けれども多くの詩篇は、あまり表現の手馴れた、日本的のものになりすぎていて、どうかすると、平明な抒情詩ででもある様に見えたのであった。三木露風氏・北原白秋氏その他の人々の象徴詩と言われたものも、だから上田氏式な象徴詩の理会に立って出来たものであった訣《わけ》である。だがそれでいて、誰も満足はしていなかった。おそらくこのほかにまだ象徴詩の領分があるのだろうと思っていたらしい事は、考えられる。何よりも讃《たた》うべきは、若い時代にすぐれた感受を持った詩人たちの多かった事である。その後四十年、日本詩壇では、其昔詩の若かった時代のままに、象徴詩は栄えている。此間に、われわれが眺めていた象徴詩の動きはどうだったろう。詩人たちはあまり日本化せられた象徴詩が、泰西の象徴詩と縁遠くなっている事を感じた。これを救うには、詩語或は詞章の文体に限って、ふらんす[#「ふらんす」に傍線]其外の象徴派詩人のもつ言語・詞章そのままにしたてるほかはないと考えた。日本語を欧洲の文体にすると言う事は、詩自身ふらんす[#「ふらんす」に傍線]語・どいつ[#「どいつ」に傍線]語その外の語で書くと言う
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