った度に、早合点で謙遜《けんそん》なわれわれは、理会に煉熟《れんじゅく》していない自分を恥じて来たものだ。併し其は、私たちの罪でもなく、又多くの場合、訳述者の咎《とが》でもないことが、段々わかって来た。それは国語と国語とが違い、又国語と国語とにしみこんでいる表現の習慣の違いから来ている。日本の国語に翻《うつ》し後《あと》づけて行った詩のことばことばが、らんぼお[#「らんぼお」に傍線]やぼおどれいる[#「ぼおどれいる」に傍線]や、そう言った人の育って来、又人々の特殊化して行ったそれぞれの国語の陰影を吸収して行かないのである。
われわれの友人の多くは、外国の象徴詩を国語に翻訳したその瞬間、自分たちの予期せなかった訳文の、目の前に展《ひろが》っているのを見て、驚いたことであろう。その人が原作に忠実な詩人であればある程、訳詩がちっとも、もとの姿をうつしていないことに悲観したことが察せられる。それほど日本語は、象徴詩人の欲するような隈々《くまぐま》を持っていないのである。単に象徴性能のある言語や詞章を求めれば、日本古代の豊富な律文集のうちから探り出すことはそう困難なことではない。だが、所謂《いわゆる》象徴詩人の象徴詩に現れた言語の、厳格な意味における象徴性と言うものは、実際蒲原有明さんの象徴詩の試作の示されるまでは、夢想もしなかったことだった。私はまだ覚えている。そうした、氏の何番目かの作物に、「朝なり、やがて濁り川……」(後、「朝なり、やがて川筋は……」と言う風に改ったと覚えている)をもって始まる短篇の発表のあった時、我々の心はある感情の籠《こも》ったとよみを挙げた、あの感動の記憶を失わないでいる。ただ一種の心うごき――楽しいとも不安なとも、何とも名状の出来ぬ動揺の起ったものであった。もっと我々が静かに思い見る事が出来たのだったら、日本語が全く経験のない発想の突発に、驚きのそよぎを立てていたかも知れないのである。それでも、蒲原氏、ひきつづいて薄田泣菫さん以下の人々の象徴詩に、相当にわれわれにも理会の出来るものが現れた。それを今くり返して見ると、そう言うのは、多くは、譬喩《ひゆ》詩に過ぎなかった。われわれは、譬喩詩の持っている鍵をもって、象徴詩を開いたものと思い違えていたこともあったのである。その当時上田敏さん等の仲間で、蒲原氏の創作詩の解き難い部分をふらんす[#「ふらんす」
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