、当然現代語の構造によって発想してゆく詩が、有望である筈だが、詩の欲する言語・文体は、必しも今経過しながら在る現代語を以て、最上の表現性能を持ったものと考える訣にはいかない。われわれの詩が、当然未来を対象とせなければならない所に、重点を置いて考えれば、詩に於ては、未来語の開拓発見を疎《おろそか》にしてはならない。古典派である私なども、現在語ばかりを以てする詩の稽古《けいこ》もするが、時としてはそうして出来た作物が、まるで裸虫である様な気のする事がある。おそらく多くの場合、現実の観察や批評に過ぎなくて、それにつづく未来を、その文体から展《ひら》き出そうとしていない点に、詩の喪失があるのであろう。私の話は、詩語としての古語を肯定した。併しこれは、最近までの歴史上の事実の肯定に過ぎない。そしてつづいて、詩に於ける現在語並びにその文体を悲観して来た。併しこれは、未来語発想と言うことを土台として考える時、もっと意義を持って来る。単なる現代語は、現代の生活を構成するに適している、と言う様な合理論に満足出来ぬのである。未来語の出て来る土台として現在語を考えるのである。未来詩語・未来文体はどうして現れて来るか。これも空想としてやり過したくない。必、過去半世紀に渉《わた》る日本詩人たちの努力が、無意識ながらそうした方向に向いていただろう。それで、その暗示らしいものを生してゆくのが、最正しい道だろう。
ここに到って、私は最痛切に悲観した翻訳詩体を意味あるものとして、とりあげねばならなくなった。翻訳詩を目安として、新しい詩を展示しようとしている詩人たちの努力を無にせずにすむのである。詩の未来文体の模型として、詩人の大半が努力しているのが翻訳詩である。原作に対する翻訳者の理会力が、どんな場合にもものを言うが、その理会が完全に日本語にうつして表現せられた場合は、そこに日本の詩が生れる訣《わけ》である。「海潮音」に示された上田敏さんの外国詩に対する理会と、日本的な表現力は、多くの象徴詩などをすっかり日本の詩にしてしまった。
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流れの岸の一もとは
み空の色のみづあさぎ
波こと/″\くくちづけし
波こと/″\く忘れゆく
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われ人共に、すぐれた訳詩だと賞讃《しょうさん》したものであるが、翻訳技術の巧みな事は勿論ながら、其所には原詩の色も香も、すっかり
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