なものが現れ出した。
地の文と對話と、内容と外部との描寫の交錯した、自由な發想法が出て來た事である。此は大分、文章の歴史の上の大事件の樣な氣がする。唯中には、かうした形を文章の技巧と意識し過ぎて、一種のじやず・ばんど[#「じやず・ばんど」に傍線]を作らうと考へてゐるらしい作家もあるのには困る。さう早くから、望みある水の川上を濁してくれては困る。こんな點では、さすがに谷讓次さんのものには、心理に隨伴した交錯や、幻影が適確な表現を獲てゐる事が多いと思ふ。なるほど世間の評判も、時には信じてよいと考へた。だが、此人の文章にも、氣品があり過ぎる。新感覺派に接觸し過ぎてゐるのが、好意は持てゝも、不安である。かう言ふ氣品は、どうかすれば、小い皮肉を出したがるものである。鴎外博士の作物の缺點は、とりすまし[#「とりすまし」に傍点]と、小皮肉とであつた。芥川さんなどは其に終始してゐた樣である。第二の潤一郎になる人は、此人ではないかと思ふだけ、少しのあら[#「あら」に傍点]が目立つていけない。
谷崎さんの文章は、世間で言ふほど完成したものではない。私どもに言はせれば、芥川さんなどより破綻がある。けれどもそこに、がら[#「がら」に傍点]の大きさを見せてゐる。又其だけ文章にも、不安は持つてゐられるらしい。昨年出た本誌の論文――「現代口語文の缺點について」――などは、實はもつと國語・國文教育者が、反省してもよい筈だつたと思ふ。私などは、無條件に賛成である。其といふのが、常日頃考へてゐた事の代言をして貰うた氣がしたからだ。其ほど、私をつり込んだ論文も、實は谷崎さん當座用の煩悶帳であつた。今一つ將來の文章についても書いておいて貰ひたかつたものだ。
聲調の上の美や、描寫法の上の傳習的な確實から超越した、さうしてまう少し日本流に連綿した文章が出ようとしてゐる。又其を育てねばならぬと言ふ申し出が、實は聽きたかつたのである。
底本:「折口信夫全集 廿七卷」
1968(昭和43)年1月25日発行
初出:「改造 第十二卷第二號」
1930(昭和5)年2月
※底本の題名の下に書かれている「昭和五年二月「改造」第十二卷第二號」はファイル末の「初出」欄に移しました。
※踊り字(/\、/″\)の誤用の混在は底本の通りとしました。
入力:高柳典子
校正:多羅尾伴内
2003年12月27日作成
青空文
前へ
次へ
全5ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング