に、北に向いて開いて居るが、主人家族の住いは、南を広く空けて、深々とした山斎《やま》が作ってある。其に入りこみの多い池を周《めぐ》らし、池の中の島も、飛鳥の宮風に造られて居た。東の中《なか》み門《かど》、西の中み門まで備って居る。どうかすると、庭と申そうより、寛々《かんかん》とした空き地の広くおありになる宮よりは、もっと手入れが届いて居そうな気がする。
庭を立派にして住んだ、うま[#「うま」に傍点]人たちの末々の様が、兵部大輔の胸に来た。瞬間、憂欝《ゆううつ》な気持ちがかぶさって来て、前にいる大師の顔を見るのが、気の毒な様に思われる。
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案じるなよ。庭が行き届き過ぎて居る、と思うてるのだろう。そんなことはないさ。庭はよくても、亡びた人ばかりはないさ。淡海公の御館はどうだ。どの筋でも引き継がずに、今に荒してはあるが、あの立派さは。それ[#「それ」に傍点]あの山部の何とか言った、地下《じげ》の召し人の歌よみが、おれの三十になったばかりの頃、「昔見し旧《ふる》き堤は、年深み……年深み、池の渚《なぎさ》に、水草《みくさ》生ひにけり」とよんだ位だが、其後が、これ[#「これ」に傍点]此様に、四流にも岐《わか》れて栄えている。もっとあるぞ――。なに、庭などによるものじゃないわ。
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恃《たの》む所の深い此あて人は、庭の風景の、目立った個処個処を指摘しながら、其拠る所を、日本《やまと》・漢土《もろこし》に渉《わた》って説明した。
長い廊を、数人の童《わらわ》が続いて来る。
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日ずかしです。お召しあがり下されましょう。
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改って、簡単な饗応《きょうおう》の挨拶をした。まろうどに、早く酒を献じなさい、と言っている間に、美しい采女《うねめ》が、盃を額より高く捧げて出た。
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おお、それだけ受けて頂けばよい。舞いぶりを一つ、見て貰いなさい。
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家持は、何を考えても、先を越す敏感な主人に対して、唯虚心で居るより外は、なかった。
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うねめ[#「うねめ」に傍点]は、大伴の氏上へは、まだくださらぬのだったね。藤原では、存知でもあろうが、先例が早くからあって、淡海公が、近江の宮から頂戴した故事で、頂く習慣になって居ります。
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時々、こんな畏《かしこ》まったもの言いもまじえる。兵部大輔は、自身の語《ことば》づかいにも、初中終《しょっちゅう》、気扱いをせねばならなかった。
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氏上もな、身が執心で、兄公殿を太宰府へ追いまくって、後にすわろうとするのだ、と言う奴があるといの――。やっぱり「奴はやっこどち」じゃの。そう思うよ。時に女姪《めい》の姫だが――。
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さすがの聡明《そうめい》第一の大師も、酒の量は少かった。其が、今日は幾分いけた、と見えて、話が循環して来た。家持は、一度はぐらかされた緒口《いとぐち》に、とりついた気で、
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横佩墻内《よこはきかきつ》の郎女は、どうなるでしょう。社・寺、それとも宮――。どちらへ向いても、神さびた一生。あったら惜しいものでおありだ。
気にするな。気にするな。気にしたとて、どう出来るものか。此は――もう、人間の手へは、戻らぬかも知れんぞ。
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末は、独り言になって居た。そうして、急に考え深い目を凝した。池へ落した水音は、未《ひつじ》がさがると、寒々と聞えて来る。
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早く、躑躅《つつじ》の照る時分になってくれぬかなあ。一年中で、この庭の一番よい時が、待ちどおしいぞ。
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大師藤原恵美押勝朝臣の声は、若々しい、純な欲望の外、何の響きもまじえて居なかった。
十五
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つた つた つた。
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郎女は、一向《ひたすら》、あの音の歩み寄って来る畏《おそろ》しい夜更けを、待つようになった。おとといよりは昨日、昨日よりは今日という風に、其|跫音《あしおと》が間遠になって行き、此頃はふつ[#「ふつ」に傍点]に音せぬようになった。その氷の山に対《むこ》うて居るような、骨の疼《うず》く戦慄《せんりつ》の快感、其が失せて行くのを虞《おそ》れるように、姫は夜毎、鶏のうたい出すまでは、殆、祈る心で待ち続けて居る。
絶望のまま、幾晩も仰ぎ寝たきりで、目は昼よりも寤《さ》めて居た。其間に起る夜の間の現象には、一切心が留らなかった。現にあれほど、郎女の心を有頂天に引き上げた頂板《つし》の面《おもて》の光り輪にすら、明盲《あきじ》いのように、注意は惹《ひ》かれなくなった。ここに来て、疾《と》くに、七日は過ぎ、十日・半月になった。山も、野も、春のけしきが整うて居た。野茨《のいばら》の花のようだった小桜が散り過ぎて、其に次ぐ山桜が、谷から峰かけて、断続しながら咲いているのも見える。麦原《むぎふ》は、驚くばかり伸び、里人の野|為事《しごと》に出た姿が、終日、そのあたりに動いている。
都から来た人たちの中、何時までこの山陰に、春を起き臥すことか、と侘《わ》びる者が殖えて行った。廬堂《いおりどう》の近くに掘り立てた板屋に、こう長びくとは思わなかったし、まだどれだけ続くかも知れぬ此生活に、家ある者は、妻子に会うことばかりを考えた。親に養われる者は、家の父母の外にも、隠れた恋人を思う心が、切々として来るのである。女たちは、こうした場合にも、平気に近い感情で居られる長い暮しの習しに馴れて、何かと為事を考えてはして居る。女方の小屋は、男のとは別に、もっと廬に接して建てられて居た。
身狭乳母《むさのちおも》の思いやりから、男たちの多くは、唯さえ小人数な奈良の御館《みたち》の番に行け、と言って還《かえ》され、長老《おとな》一人の外は、唯|雑用《ぞうよう》をする童と、奴隷《やっこ》位しか残らなかった。
乳母《おも》や、若人たちも、薄々は帳台の中で夜を久しく起きている、郎女《いらつめ》の様子を感じ出して居た。でも、なぜそう夜深く溜《た》め息《いき》ついたり、うなされたりするか、知る筈のない昔かたぎ[#「かたぎ」に傍点]の女たちである。
やはり、郎女の魂《たま》があくがれ出て、心が空しくなって居るもの、と単純に考えて居る。ある女は、魂ごいの為に、山尋ねの咒術《おこない》をして見たらどうだろう、と言った。
乳母は一口に言い消した。姫様、当麻《たぎま》に御|安著《あんちゃく》なされた其夜、奈良の御館へ計わずに、私にした当麻真人の家人たちの山尋ねが、わるい結果を呼んだのだ。当麻語部とか謂《い》った蠱物《まじもの》使いのような婆が、出しゃばっての差配が、こんな事を惹《ひ》き起したのだ。
その節、山の峠《たわ》の塚で起った不思議は、噂になって、この貴人《うまびと》一家の者にも、知れ渡って居た。あらぬ者の魂を呼び出して、郎女様におつけ申しあげたに違いない。もうもう、軽はずみな咒術は思いとまることにしよう。こうして、魂《たま》の游離《あくが》れ出た処の近くにさえ居れば、やがては、元のお身になり戻り遊されることだろう。こんな風に考えて、乳母は唯、気長に気ながに、と女たちを諭し諭しした。こんな事をして居る中に、早一月も過ぎて、桜の後、暫らく寂しかった山に、躑躅《つつじ》が燃え立った。足も行かれぬ崖の上や、巌の腹などに、一群《ひとむら》一群咲いて居るのが、奥山の春は今だ、となのって居るようである。
ある日は、山へ山へと、里の娘ばかりが上って行くのを見た。凡《およそ》数十人の若い女が、何処で宿ったのか、其次の日、てんでに赤い山の花を髪にかざして、降りて来た。廬の庭から見あげた若女房の一人が、山の躑躅林が練って降るようだ、と声をあげた。
ぞよぞよと廬の前を通る時、皆頭をさげて行った。其中の二三人が、つくねんとして暮す若人たちの慰みに呼び入れられて、板屋の端へ来た。当麻の田居も、今は苗代時《なわしろどき》である。やがては田植えをする。其時は、見に出やしゃれ。こんな身でも、其時はずんと、おなごぶりが上るぞな、と笑う者もあった。
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ここの田居の中で、植え初めの田は、腰折れ田と言うて、都までも聞えた物語りのある田じゃげな。
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若人たちは、又例の蠱物姥《まじものうば》の古語りであろう、とまぜ返す。ともあれ、こうして、山ごもりに上った娘だけに、今年の田の早処女が当ります。其しるしが此じゃ、と大事そうに、頭の躑躅に触れて見せた。
もっと変った話を聞かせぬかえと誘われて、身分に高下はあっても、同じ若い同士のこととて、色々な田舎咄《いなかばなし》をして行った。其を後《のち》に乳母たちが聴いて、気にしたことがあった。山ごもりして居ると、小屋の上の崖をどうどうと踏みおりて来る者がある。ようべ、真夜中のことである。一様にうなされて、苦しい息をついていると、音はそのまま、真下へ真下へ、降って行った。がらがらと、岩の崩《く》える響き。――ちょうど其が、此盧堂の真上の高処《たか》に当って居た。こんな処に道はない筈じゃが、と今朝起きぬけに見ると、案の定、赤岩の大崩崖《おおなぎ》。ようべの音は、音ばかりで、ちっとも痕《あと》は残って居なかった。
其で思い合せられるのは、此頃ちょくちょく、子《ね》から丑《うし》の間に、里から見えるこのあたりの峰《お》の上《え》に、光り物がしたり、時ならぬ一時颪《いっときおろし》の凄い唸《うな》りが、聞えたりする。今までついに[#「ついに」に傍点]聞かぬこと。里人は唯こう、恐れ謹しんで居る、とも言った。
こんな話を残して行った里の娘たちも、苗代田の畔《あぜ》に、めいめいのかざしの躑躅花を挿して帰った。其は昼のこと、田舎は田舎らしい閨《ねや》の中に、今は寝ついたであろう。夜はひた更けに、更けて行く。
昼の恐れのなごりに、寝苦しがって居た女たちも、おびえ疲れに寝入ってしまった。頭上の崖で、寝鳥の鳴き声がした。郎女は、まどろんだとも思わぬ目を、ふっと開いた。続いて今ひと響き、びし[#「びし」に傍点]としたのは、鳥などの、翼ぐるめ[#「ぐるめ」に傍点]ひき裂かれたらしい音である。だが其だけで、山は音どころか、生き物も絶えたように、虚しい空間の闇に、時間が立って行った。
郎女の額《ぬか》の上の天井の光の暈《かさ》が、ほのぼのと白んで来る。明りの隈《くま》はあちこちに偏倚《かたよ》って、光りを竪《たて》にくぎって行く。と見る間に、ぱっと明るくなる。そこに大きな花。蒼白い菫《すみれ》。その花びらが、幾つにも分けて見せる隈、仏の花の青蓮華《しょうれんげ》と言うものであろうか。郎女の目には、何とも知れぬ浄《きよ》らかな花が、車輪のように、宙にぱっと開いている。仄暗《ほのぐら》い蕋《しべ》の処に、むらむらと雲のように、動くものがある。黄金の蕋をふりわける。其は黄金の髪である。髪の中から匂い出た荘厳な顔。閉じた目が、憂いを持って、見おろして居る。ああ肩・胸・顕《あら》わな肌。――冷え冷えとした白い肌。おお おいとおしい。
郎女は、自身の声に、目が覚めた。夢から続いて、口は尚夢のように、語を逐《お》うて居た。
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おいとおしい。お寒かろうに――。
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十六
山の躑躅の色は、様々ある。一つ色のものだけが、一時に咲き出して、一時に萎《しぼ》む。そうして、凡一月は、後から後から替った色のが匂い出て、禿《は》げた岩も、一冬のうら枯れをとり返さぬ柴木山《しばきやま》も、若夏の青雲の下に、はでなかざしをつける。其間に、藤の短い花房が、白く又紫に垂れて、老い木の幹の高さを、せつなく、寂しく見せる。下草に交って、馬酔木《あしび》が雪のように咲いても、花めいた心を、誰に起させることもなしに、過ぎるのがあわれである。
もう此頃になると、山は厭《いと》わしいほど緑に埋れ、谷は深々と、繁りに隠されてし
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