は白々と広く、夜目には、芝草の蔓《は》って居るのすら見える。当麻路《たぎまじ》である。一降《ひとくだ》りして又、大降《おおくだ》りにかかろうとする処が、中だるみに、やや坦《ひらた》くなっていた。梢の尖《とが》った栢《かえ》の木の森。半世紀を経た位の木ぶりが、一様に揃って見える。月の光りも薄い木陰全体が、勾配《こうばい》を背負って造られた円塚であった。月は、瞬きもせずに照し、山々は、深く※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》を閉じている。
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こう こう こう。
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先刻《さっき》から、聞えて居たのかも知れぬ。あまり寂《しず》けさに馴れた耳は、新な声を聞きつけよう、としなかったのであろう。だから、今珍しく響いて来た感じもないのだ。
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こう こう こう――こう こう こう。
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確かに人声である。鳥の夜声とは、はっきりかわった韻《ひびき》を曳《ひ》いて来る。声は、暫らく止んだ。静寂は以前に増し、冴え返って張りきっている。この山の峰つづきに見えるのは、南に幾重ともなく重った、葛城《かつらぎ》の峰々である。伏越《ふしごえ》・櫛羅《くしら》・小巨勢《こごせ》と段々高まって、果ては空の中につき入りそうに、二上山と、この塚にのしかかるほど、真黒に立ちつづいている。
当麻路をこちらへ降って来るらしい影が、見え出した。二つ三つ五つ……八つ九つ。九人の姿である。急な降りを一気に、この河内路へ馳《か》けおりて来る。
九人と言うよりは、九柱の神であった。白い著物《きもの》・白い鬘《かずら》、手は、足は、すべて旅の装束《いでたち》である。頭より上に出た杖をついて――。この坦《たいら》に来て、森の前に立った。
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こう こう こう。
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誰の口からともなく、一時に出た叫びである。山々のこだま[#「こだま」に傍点]は、驚いて一様に、忙しく声を合せた。だが、山は、忽《たちまち》一時の騒擾《そうじょう》から、元の緘黙《しじま》に戻ってしまった。
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こう。こう。お出でなされ。藤原|南家《なんけ》郎女《いらつめ》の御魂《みたま》。
こんな奥山に、迷うて居るものではない。早く、もとの身に戻れ。こう こう。
お身さまの魂を、今、山たずね尋ねて、尋ねあてたおれたちぞよ。こう こう こう。
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九つの杖びとは、心から神になって居る。彼らは、杖を地に置き、鬘を解いた。鬘は此時、唯真白な布に過ぎなかった。其を、長さの限り振り捌《さば》いて、一様に塚に向けて振った。
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こう こう こう。
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こう言う動作をくり返して居る間に、自然な感情の鬱屈《うっくつ》と、休息を欲するからだの疲れとが、九体の神の心を、人間に返した。彼らは見る間に、白い布を頭に捲《ま》きこんで鬘とし、杖を手にとった旅人として、立っていた。
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おい。無言《しじま》の勤めも此までじゃ。
おお。
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八つの声が答えて、彼等は訓練せられた所作のように、忽一度に、草の上に寛《くつろ》ぎ、再杖を横えた。
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これで大和も、河内との境じゃで、もう魂ごいの行《ぎょう》もすんだ。今時分は、郎女さまのからだは、廬《いおり》の中で魂をとり返して、ぴちぴちして居られようぞ。
ここは、何処だいの。
知らぬかいよ。大和にとっては大和の国、河内にとっては河内の国の大関《おおぜき》。二上の当麻路の関――。
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別の長老《とね》めいた者が、説明を続《つ》いだ。
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四五十年あとまでは、唯関と言うばかりで、何の標《しるし》もなかった。其があの、近江の滋賀の宮に馴染み深かった、其よ。大和では、磯城《しき》の訳語田《おさだ》の御館《みたち》に居られたお方。池上の堤で命召されたあのお方の骸《むくろ》を、罪人に殯《もがり》するは、災の元と、天若日子《あめわかひこ》の昔語りに任せて、其まま此処にお搬《はこ》びなされて、お埋《い》けになったのが、此塚よ。
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以前の声が、もう一層|皺《しわ》がれた響きで、話をひきとった。
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其時の仰せには、罪人よ。吾子《わこ》よ。吾子の為《し》了《おお》せなんだ荒《あら》び心で、吾子よりももっと、わるい猛《たけ》び心を持った者の、大和に来向うのを、待ち押え、塞《さ》え防いで居ろ、と仰せられた。
ほんに、あの頃は、まだおれたちも、壮盛《わかざか》りじゃったに。今ではもう、五十年昔になるげな。
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今一人が、相談でもしかける様な、口ぶりを挿んだ。
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さいや。あの時も、墓作りに雇われた。その後も、当麻路の修覆に召し出された。此お墓の事は、よく知って居る。ほんの苗木じゃった栢が、此ほどの森になったものな。畏《こわ》かったぞよ。此墓のみ魂が、河内|安宿部《あすかべ》から石担《いしも》ちに来て居た男に、憑《つ》いた時はのう。
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九人は、完全に現《うつ》し世《よ》の庶民の心に、なり還《かえ》って居た。山の上は、昔語りするには、あまり寂しいことを忘れて居たのである。時の更け過ぎた事が、彼等の心には、現実にひしひしと、感じられ出したのだろう。
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もう此でよい。戻ろうや。
よかろ よかろ。
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皆は、鬘をほどき、杖を棄てた白衣の修道者、と言うだけの姿《なり》になった。
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だがの。皆も知ってようが、このお塚は、由緒深い、気のおける処ゆえ、もう一度、魂ごいをしておくまいか。
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長老の語と共に、修道者たちは、再|魂呼《たまよば》いの行を初めたのである。
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こう こう こう。
おお……。
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異様な声を出すものだ、と初めは誰も、自分らの中の一人を疑い、其でも変に、おじけづいた心を持ちかけていた。も一度、
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こう こう こう。
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其時、塚穴の深い奥から、冰《こお》りきった、而も今息を吹き返したばかりの声が、明らかに和したのである。
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おおう……。
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九人の心は、ばらばらの九人の心々であった。からだも亦ちりぢりに、山田谷へ、竹内谷へ、大阪越えへ、又当麻路へ、峰にちぎれた白い雲のように、消えてしまった。
唯畳まった山と、谷とに響いて、一つの声ばかりがする。
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おおう……。
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三
万法蔵院の北の山陰に、昔から小な庵室《あんしつ》があった。昔からと言うのは、村人がすべて、そう信じて居たのである。荒廃すれば繕い繕いして、人は住まぬ廬に、孔雀明王像《くじゃくみょうおうぞう》が据えてあった。当麻の村人の中には、稀《まれ》に、此が山田寺である、と言うものもあった。そう言う人の伝えでは、万法蔵院は、山田寺の荒れて後、飛鳥の宮の仰せを受けてとも言い、又御自身の御発起からだとも言うが、一人の尊いみ子が、昔の地を占めにお出でなされて、大伽藍《だいがらん》を建てさせられた。其際、山田寺の旧構を残すため、寺の四至の中、北の隅へ、当時立ち朽《ぐさ》りになって居た堂を移し、規模を小くして造られたもの、と伝え言うのであった。そう言えば、山田寺は、役君小角《えのきみおづぬ》が、山林仏教を創《はじ》める最初の足代《あししろ》になった処だと言う伝えが、吉野や、葛城の山伏行人《やまぶしぎょうにん》の間に行われていた。何しろ、万法蔵院の大伽藍が焼けて百年、荒野の道場となって居た、目と鼻との間に、こんな古い建て物が、残って居たと言うのも、不思議なことである。
夜は、もう更けて居た。谷川の激《たぎ》ちの音が、段々高まって来る。二上山の二つの峰の間から、流れくだる水なのだ。
廬の中は、暗かった。炉を焚《た》くことの少い此辺では、地下《じげ》百姓は、夜は真暗な中で、寝たり、坐ったりしているのだ。でもここには、本尊が祀《まつ》ってあった。夜を守って、仏の前で起き明す為には、御灯《みあかし》を照した。
孔雀明王の姿が、あるかないかに、ちろめく光りである。
姫は寝ることを忘れたように、坐って居た。
万法蔵院の上座の僧綱《そうごう》たちの考えでは、まず奈良へ使いを出さねばならぬ。横佩家《よこはきけ》の人々の心を、思うたのである。次には、女人結界《にょにんけっかい》を犯して、境内深く這入《はい》った罪は、郎女《いらつめ》自身に贖《あがな》わさねばならなかった。落慶のあったばかりの浄域だけに、一時は、塔頭《たっちゅう》塔頭の人たちの、青くなったのも、道理である。此は、財物を施入する、と謂《い》ったぐらいではすまされぬ。長期の物忌みを、寺近くに居て果させねばならぬと思った。其で、今日昼の程、奈良へ向って、早使いを出して、郎女の姿が、寺中に現れたゆくたて[#「ゆくたて」に傍点]を、仔細《しさい》に告げてやったのである。
其と共に姫の身は、此|庵室《あんしつ》に暫らく留め置かれることになった。たとい、都からの迎えが来ても、結界を越えた贖いを果す日数だけは、ここに居させよう、と言うのである。
牀《ゆか》は低いけれども、かいてあるにはあった。其替り、天井は無上《むしょう》に高くて、而も萱《かや》のそそけた屋根は、破風《はふ》の脇から、むき出しに、空の星が見えた。風が唸《うな》って過ぎたと思うと、其高い隙から、どっと吹き込んで来た。ばらばら落ちかかるのは、煤《すす》がこぼれるのだろう。明王の前の灯が、一時《いっとき》かっと明るくなった。
その光りで照し出されたのは、あさましく荒《すさ》んだ座敷だけでなかった。荒板の牀の上に、薦筵《こもむしろ》二枚重ねた姫の座席。其に向って、ずっと離れた壁ぎわに、板敷に直《じか》に坐って居る老婆の姿があった。
壁と言うよりは、壁代《かべしろ》であった。天井から吊りさげた竪薦《たつごも》が、幾枚も幾枚も、ちぐはぐに重って居て、どうやら、風は防ぐようになって居る。その壁代に張りついたように坐って居る女、先から※[#「亥+欠」、第3水準1−86−30]嗽《しわぶき》一つせぬ静けさである。貴族の家の郎女は、一日もの言わずとも、寂しいとも思わぬ習慣がついて居た。其で、この山陰の一つ家に居ても、溜《た》め息《いき》一つ洩《もら》すのではなかった。昼《ひ》の内此処へ送りこまれた時、一人の姥《うば》のついて来たことは、知って居た。だが、あまり長く音も立たなかったので、人の居ることは忘れて居た。今ふっと明るくなった御灯《みあかし》の色で、その姥の姿から、顔まで一目で見た。どこやら、覚えのある人の気がする。さすがに、姫にも人懐しかった。ようべ家を出てから、女性《にょしょう》には、一人も逢って居ない。今そこに居る姥が、何だか、昔の知り人のように感じられたのも、無理はないのである。見覚えのあるように感じたのは、だが、其親しみ故だけではなかった。
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郎女さま。
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緘黙《しじま》を破って、却《かえっ》てもの寂しい、乾声《からごえ》が響いた。
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郎女は、御存じおざるまい。でも、聴いて見る気はおありかえ。お生れなさらぬ前の世からのことを。それを知った姥でおざるがや。
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一旦、口がほぐれると、老女は止めどなく、喋《しゃべ》り出した。姫は、この姥の顔に見知りのある気のした訣《わけ》を、悟りはじめて居た。藤原南家にも、常々、此年よりとおなじような媼《おむな》が、出入りして居た。郎女たちの居る女部屋までも、何時もずかずか這入って来て、憚《はばか》りなく古物語りを語った、あの中臣志斐媼《なかとみのしいのおむな》―
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