たぞ。おれが誰だったか、――訣《わか》ったぞ。
おれだ。此おれだ。大津の宮に仕え、飛鳥の宮に呼び戻されたおれ。滋賀津彦《しがつひこ》。其が、おれだったのだ。
[#ここで字下げ終わり]
歓びの激情を迎えるように、岩窟の中のすべての突角が哮《たけ》びの反響をあげた。彼の人は、立って居た。一本の木だった。だが、其姿が見えるほどの、はっきりした光線はなかった。明りに照し出されるほど、纏《まとま》った現《うつ》し身《み》をも、持たぬ彼の人であった。
唯、岩屋の中に矗立《しゅくりつ》した、立ち枯れの木に過ぎなかった。
[#ここから1字下げ]
おれの名は、誰も伝えるものがない。おれすら忘れて居た。長く久しく、おれ自身にすら忘れられて居たのだ。可愛《いと》しいおれの名は、そうだ。語り伝える子があった筈だ。語り伝えさせる筈の語部も、出来て居ただろうに。――なぜか、おれの心は寂しい。空虚な感じが、しくしくと胸を刺すようだ。
――子代《こしろ》も、名代《なしろ》もない、おれにせられてしまったのだ。そうだ。其に違いない。この物足らぬ、大きな穴のあいた気持ちは、其で、するのだ。おれは、此世に居なかったと同前の人
前へ 次へ
全159ページ中31ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング