言うのであった。此はここだけの咄《はなし》だよ、と言って話したのが、次第に広まって、家持の耳までも聞えて来た。なるほど、憤怒の相もすさまじいにはすさまじいが、あれがどうも、当今|大倭《やまと》一だと言われる男たちの顔、そのままだと言うのである。貴人は言わぬ、こう言う種類の噂は、えて[#「えて」に傍点]供をして見て来た道々の博士たちと謂った、心|蔑《さも》しいものの、言いそうな事である。
多聞天は、大師藤原恵美|中卿《ちゅうけい》だ。あの柔和な、五十を越してもまだ、三十代の美しさを失わぬあの方が、近頃おこりっぽくなって、よく下官や、仕え人を叱るようになった。あの円満《うま》し人《びと》が、どうしてこんな顔つきになるだろう、と思われる表情をすることがある。其|面《おも》もちそっくりだ、と尤《もっとも》らしい言い分なのである。
そう言えば、あの方が壮盛《わかざか》りに、棒術を嗜《この》んで、今にも事あれかしと謂った顔で、立派な甲《よろい》をつけて、のっしのっしと長い物を杖《つ》いて歩かれたお姿が、あれを見ていて、ちらつくようだなど、と相槌《あいづち》をうつ者も出て来た。
其では、広目天の方はと言うと、
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さあ、其がの――。
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と誰に言わせても、ちょっと言い渋るように、困った顔をして見せる。
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実は、ほんの人の噂だがの。噂だから、保証は出来ぬがの。義淵僧正の弟子の道鏡法師に、似てるぞなと言うがや。……けど、他人《ひと》に言わせると、――あれはもう、二十幾年にもなるかいや――筑紫で伐《う》たれなされた前太宰少弐《ぜんだざいのしょうに》―藤原広嗣―の殿に生写《しょううつ》しじゃ、とも言うがいよ。
わしには、どちらとも言えんがの。どうでも、見たことのあるお人に似て居さっしゃるには、似ていさっしゃるげなが……。
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何しろ、此二つの天部が、互に敵視するような目つきで、睨《にら》みあって居る。噂を気にした住侶《じゅうりょ》たちが、色々に置き替えて見たが、どの隅からでも、互に相手の姿を、眦《まなじり》を裂いて見つめて居る。とうとうあきらめて、自然にとり沙汰の消えるのを待つより為方《しかた》がない、と思うようになったと言う。
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若《も》しや、天下に大乱でも起らなければええが――。
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こんな※[#「口+耳」、第3水準1−14−94]《ささや》きは、何時までも続きそうに、時と共に倦《う》まずに語られた。
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前少弐殿でなくて、弓削新発意《ゆげしんぼち》の方であってくれれば、いっそ安心だがなあ。あれなら、事を起しそうな房主でもなし。起したくても、起せる身分でもないじゃまで――。
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言いたい傍題《ほうだい》な事を言って居る人々も、たった此一つの話題を持ちあぐね初めた頃、噂の中の大師|恵美朝臣《えみのあそん》の姪の横佩家《よこはきけ》の郎女《いらつめ》が、神隠しに遭《お》うたと言う、人の口の端に、旋風《つじかぜ》を起すような事件が、湧き上ったのである。

   九

兵部大輔《ひょうぶたいふ》大伴家持は、偶然この噂を、極めて早く耳にした。ちょうど、春分から二日目の朝、朱雀大路を南へ、馬をやって居た。二人ばかりの資人《とねり》が徒歩《かち》で、驚くほどに足早について行く。此は、晋唐の新しい文学の影響を、受け過ぎるほど享《う》け入れた文人かたぎの彼には、数年来珍しくもなくなった癖である。こうして、何処まで行くのだろう。唯、朱雀の並み木の柳の花がほほけて、霞のように飛んで居る。向うには、低い山と、細長い野が、のどかに陽炎《かげろ》うばかりである。資人の一人が、とっと[#「とっと」に傍点]と追いついて来たと思うと、主人の鞍《くら》に顔をおしつける様にして、新しい耳を聞かした。今行きすごうた知り人の口から、聞いたばかりの噂である。
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それで、何か――。娘御の行くえは知れた、と言うのか。
はい……。いいえ。何分、その男がとり急いで居りまして。
この間抜け。話はもっと上手に聴くものだ。
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柔らかく叱った。そこへ今《も》一人の伴《とも》が、追いついて来た。息をきらしている。
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ふん。汝《わけ》は聞き出したね。南家《なんけ》の嬢子《おとめ》は、どうなった――。
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出端《でばな》に油かけられた資人は、表情に隠さず心の中を表した此頃の人の、自由な咄《はな》し方で、まともに鼻を蠢《うごめか》して語った。
当麻《たぎま》の邑《むら》まで、おととい夜《よ》の中に行って居たこと、寺からは、昨日午後横佩|墻内《かきつ》へ知
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