そうしたように、此世に在る間そう暮して居た――習しからである。彼の人は、のくっと[#「のくっと」に傍点]起き直ろうとした。だが、筋々が断《き》れるほどの痛みを感じた。骨の節々の挫《くじ》けるような、疼《うず》きを覚えた。……そうして尚、じっと、――じっとして居る。射干玉《ぬばたま》の闇。黒玉の大きな石壁に、刻み込まれた白々としたからだの様に、厳かに、だが、すんなりと、手を伸べたままで居た。耳面刀自の記憶。ただ其だけの深い凝結した記憶。其が次第に蔓《ひろが》って、過ぎた日の様々な姿を、短い聯想《れんそう》の紐《ひも》に貫いて行く。そうして明るい意思が、彼の人の死枯《しにが》れたからだに、再《ふたたび》立ち直って来た。
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耳面刀自。おれが見たのは、唯一目――唯一度だ。だが、おまえのことを聞きわたった年月は、久しかった。おれによって来い。耳面刀自。
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記憶の裏から、反省に似たものが浮び出て来た。
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おれは、このおれは、何処に居るのだ。……それから、ここは何処なのだ。其よりも第一、此おれは誰なのだ。其をすっかり、おれは忘れた。
だが、待てよ。おれは覚えて居る。あの時だ。鴨が声《ね》を聞いたのだっけ。そうだ。訳語田《おさだ》の家を引き出されて、磐余《いわれ》の池に行った。堤の上には、遠捲《とおま》きに人が一ぱい。あしこの萱原《かやはら》、そこの矮叢《ぼさ》から、首がつき出て居た。皆が、大きな喚《おら》び声を、挙げて居たっけな。あの声は残らず、おれをいとしがって居る、半泣きの喚《わめ》き声だったのだ。其でもおれの心は、澄みきって居た。まるで、池の水だった。あれは、秋だったものな。はっきり聞いたのが、水の上に浮いている鴨鳥の声だった。今思うと――待てよ。其は何だか一目惚《ひとめぼ》れの女の哭《な》き声だった気がする。――おお、あれが耳面刀自だ。其瞬間、肉体と一つに、おれの心は、急に締めあげられるような刹那《せつな》を、通った気がした。俄《にわ》かに、楽な広々とした世間に、出たような感じが来た。そうして、ほんの暫らく、ふっ[#「ふっ」に傍点]とそう考えたきりで……、空も見ぬ、土も見ぬ、花や、木の色も消え去った――おれ自分すら、おれが何だか、ちっとも訣《わか》らぬ世界のものになってしまったのだ。
ああ、其時きり、おれ
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