ら、むき出しに、空の星が見えた。風が唸《うな》って過ぎたと思うと、其高い隙から、どっと吹き込んで来た。ばらばら落ちかかるのは、煤《すす》がこぼれるのだろう。明王の前の灯が、一時《いっとき》かっと明るくなった。
その光りで照し出されたのは、あさましく荒《すさ》んだ座敷だけでなかった。荒板の牀の上に、薦筵《こもむしろ》二枚重ねた姫の座席。其に向って、ずっと離れた壁ぎわに、板敷に直《じか》に坐って居る老婆の姿があった。
壁と言うよりは、壁代《かべしろ》であった。天井から吊りさげた竪薦《たつごも》が、幾枚も幾枚も、ちぐはぐに重って居て、どうやら、風は防ぐようになって居る。その壁代に張りついたように坐って居る女、先から※[#「亥+欠」、第3水準1−86−30]嗽《しわぶき》一つせぬ静けさである。貴族の家の郎女は、一日もの言わずとも、寂しいとも思わぬ習慣がついて居た。其で、この山陰の一つ家に居ても、溜《た》め息《いき》一つ洩《もら》すのではなかった。昼《ひ》の内此処へ送りこまれた時、一人の姥《うば》のついて来たことは、知って居た。だが、あまり長く音も立たなかったので、人の居ることは忘れて居た。今ふっと明るくなった御灯《みあかし》の色で、その姥の姿から、顔まで一目で見た。どこやら、覚えのある人の気がする。さすがに、姫にも人懐しかった。ようべ家を出てから、女性《にょしょう》には、一人も逢って居ない。今そこに居る姥が、何だか、昔の知り人のように感じられたのも、無理はないのである。見覚えのあるように感じたのは、だが、其親しみ故だけではなかった。
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郎女さま。
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緘黙《しじま》を破って、却《かえっ》てもの寂しい、乾声《からごえ》が響いた。
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郎女は、御存じおざるまい。でも、聴いて見る気はおありかえ。お生れなさらぬ前の世からのことを。それを知った姥でおざるがや。
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一旦、口がほぐれると、老女は止めどなく、喋《しゃべ》り出した。姫は、この姥の顔に見知りのある気のした訣《わけ》を、悟りはじめて居た。藤原南家にも、常々、此年よりとおなじような媼《おむな》が、出入りして居た。郎女たちの居る女部屋までも、何時もずかずか這入って来て、憚《はばか》りなく古物語りを語った、あの中臣志斐媼《なかとみのしいのおむな》―
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