反《イツムラ》目を織りきると、機に上ることをやめた。さうして、日も夜も、針を動した。
長月の空は、三日の月のほのめき出したのさへ、寒く眺められる。この夜寒に、俤人の肩の白さを思ふだけでも、堪へられなかつた。
裁ち縫ふわざは、あて人の子のする事ではなかつた。唯、他人《ヒト》の手に觸れさせたくない。かう思ふ心から、解いては縫ひ、縫うてはほどきした。現《ウツ》し世《ヨ》の幾人にも當る大きなお身に合ふ衣を、縫ふすべを知らなかつた。せつかく織り上げた上帛《ハタ》を、裁《タ》つたり截《キ》つたり、段々布は狹くなつて行く。
女たちも、唯姫の手わざを見て居るほかはなかつた。何を縫ふものとも考へ當らぬ囁きに、日を暮すばかりである。
其上、日に増し、外は冷えて來る。人々は一日も早く、奈良の御館に歸ることを願ふばかりになつた。郎女は、暖かい晝、薄暗い廬の中で、うつとりとしてゐた。その時、語部《カタリ》の尼が歩み寄つて來るのを、又まざ/″\と見たのである。
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何を思案遊ばす。壁代《カベシロ》の樣に縱横に裁ちついで、其まゝ身に纒ふやうになさる外はおざらぬ。それ、こゝに紐をつけて、肩の上でくゝりあはせれば、晝は衣になりませう。紐を解き敷いて、折り返し被《カブ》れば、やがて夜の衾《フスマ》にもなりまする。天竺の行人《ギヤウニン》たちの著る僧伽梨《ソウギヤリ》と言ふのが、其でおざりまする。早くお縫ひあそばされ。
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だが、氣がつくと、やはり晝の夢を見て居たのだ。裁ちきつた布を綴り合せて縫ひ初めると、二日もたゝぬ間に、大きな一面の綴りの上帛《ハタ》が出來あがつた。
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郎女樣は、月ごろかゝつて、唯の壁代をお織りなされた。
あつたら 惜しやの。
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はり[#「はり」に傍点]が拔けたやうに、若人《ワカウド》たちが聲を落して言うて居る時、姫は悲しみながら、次の營みを考へて居た。
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「これでは、あまり寒々としてゐる。殯《モガリ》の庭の棺《ヒツギ》にかけるひしきもの[#「ひしきもの」に傍点]―喪氈―、とやら言ふものと、見た目にかはりはあるまい。」
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二十
もう、世の人の心は賢しくなり過ぎて居た。獨り語りの物語りなどに、信《シン》をうちこんで聽く者のある筈はなかつた。聞く人のない森の中などで、よく、つぶ/\と物言ふ者がある、と思うて近づくと、其が、語部の家の者だつたなど言ふ話が、どの村でも、笑ひ咄のやうに言はれるやうな世の中になつて居た。當麻語部《タギマノカタリベ》の嫗なども、都の上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《ジヤウラフ》の、もの疑ひせぬ清い心に、知る限りの事を語りかけようとした。だが、忽違つた氏の語部なるが故に、追ひ退《ノ》けられたのであつた。
さう言ふ聽きてを見あてた刹那に、持つた執心の深さ。その後、自身の家の中でも、又|廬堂《イホリダウ》に近い木立ちの陰でも、或は其處を見おろす山の上からでも、郎女に向つてする、ひとり語りは續けられて居た。
今年八月、當麻の氏人に縁深いお方が、めでたく世にお上りなされたあの時こそ、再|己《オノ》が世が來た、とほくそ笑み[#「ほくそ笑み」に傍点]をした――が、氏の神祭りにも、語部を請《シヤウ》じて、神語りを語らさうともせられなかつた。ひきついであつた、勅使の參向の節にも、呼び出されて、當麻氏の古物語りを奏上せい、と仰せられるか、と思うて居た豫期《アラマシ》も、空頼みになつた。
此はもう、自身や、自身の祖《オヤ》たちが、長く覺え傳へ、語りついで來た間、かうした事に行き逢はうとは、考へもつかなかつた時代《トキヨ》が來たのだ、と思うた瞬間、何もかも、見知らぬ世界に追放《ヤラ》はれてゐる氣がして、唯驚くばかりであつた。娯しみを失ひきつた語部《カタリベ》の古婆は、もう飯を喰べても、味は失うてしまつた。水を飮んでも、口をついて、獨り語りが囈語《ウハゴト》のやうに出るばかりになつた。
秋深くなるにつれて、衰への、目立つて來た姥は、知る限りの物語りを、喋りつゞけて死なう、と言ふ腹をきめた。さうして、郎女の耳に近い處をところ[#「ところ」に傍点]をと覓めて、さまよひ歩くやうになつた。
郎女は、奈良の家に送られたことのある、大唐の彩色《ヱノグ》の數々を思ひ出した。其を思ひついたのは、夜であつた。今から、横佩墻内へ馳けつけて、彩色《ヱノグ》を持つて還れ、と命ぜられたのは、女の中に、唯一人殘つて居た長老《オトナ》である。つひしか、こんな言ひつけをしたことのない郎女の、性急な命令に驚いて、女たちは復、何か事の起るのではないか、とおど/\して居た。だが、身狹乳母《ムサノチオモ》の計ひで、長老《オトナ》は澁々、夜道を、奈良へ向つて急いだ。
あくる日、繪具《ヱノグ》の屆けられた時、姫の聲ははなやいで、興奮《ハヤ》りかに響いた。
女たちの噂した所の、袈裟で謂へば、五十條の大衣《ダイエ》とも言ふべき、藕絲《グウシ》の上帛の上に、郎女の目はぢつとすわつて居た。やがて筆は、愉しげにとり上げられた。線描《スミガ》きなしに、うちつけに繪具《ヱノグ》を塗り進めた。美しい彩畫《タミヱ》は、七色八色の虹のやうに、郎女の目の前に、輝き増して行く。
姫は、緑青を盛つて、層々うち重る樓閣伽藍の屋根を表した。數多い柱や、廊の立ち續く姿が、目赫《メカヾヤ》くばかり、朱で彩《タ》みあげられた。むら/\と靉くものは、紺青《コンジヤウ》の雲である。紫雲は一筋長くたなびいて、中央根本堂とも見える屋の上から、畫《カ》きおろされた。雲の上には金泥《コンデイ》の光り輝く靄が、漂ひはじめた。姫の命を搾るまでの念力が、筆のまゝに動いて居る。やがて金色《コンジキ》の雲氣《ウンキ》は、次第に凝り成して、照り充ちた色身《シキシン》――現《ウツ》し世の人とも見えぬ尊い姿が顯れた。
郎女は唯、先《サキ》の日見た、萬法藏院の夕《ユフベ》の幻を、筆に追うて居るばかりである。堂・塔・伽藍すべては、當麻のみ寺のありの姿であつた。だが、彩畫《タミヱ》の上に湧き上つた宮殿《クウデン》樓閣は、兜率天宮《トソツテングウ》のたゝずまひさながらであつた。しかも、其|四十九重《シジフクヂユウ》の寶宮の内院《ナイヰン》に現れた尊者の相好《サウガウ》は、あの夕、近々と目に見た俤びとの姿を、心に覓《ト》めて描き顯したばかりであつた。
刀自・若人たちは、一刻々々、時の移るのも知らず、身ゆるぎもせずに、姫の前に開かれて來る光りの霞に、唯見|呆《ホヽ》けて居るばかりであつた。
郎女《イラツメ》が、筆をおいて、にこやかな笑《ヱマ》ひを、圓《マロ》く跪坐《ツイヰ》る此人々の背におとしながら、のどかに併し、音もなく、山田の廬堂を立ち去つた刹那、心づく者は一人もなかつたのである。まして、戸口に消える際《キハ》に、ふりかへつた姫の輝くやうな頬のうへに、細く傳ふものゝあつたのを知る者の、ある訣はなかつた。
姫の俤びとに貸す爲の衣に描いた繪樣《ヱヤウ》は、そのまゝ曼陀羅の相《スガタ》を具へて居たにしても、姫はその中に、唯一人の色身《シキシン》の幻を描いたに過ぎなかつた。併し、殘された刀自・若人たちの、うち瞻《マモ》る畫面には、見る/\、數千地涌《スセンヂユ》の菩薩の姿が、浮き出て來た。其は、幾人の人々が、同時に見た、白日夢《ハクジツム》のたぐひかも知れぬ。
底本:「折口信夫全集 第廿四巻」中央公論社
1967(昭和42)年10月25日発行
初出:「日本評論 第十四巻第一〜三号」
1939(昭和14)年1〜3月
※踊り字(/\、/″\)の誤用は底本の通りとしました。
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2009年1月20日作成
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