途方に昏れた。ちよつと見は何でもない事の樣で、實は重大な、家の大事である。其だけに、常の優柔不斷な心癖は、益々つのるばかりであつた。
寺々の知音に寄せて、當麻寺へ、よい樣に命じてくれる樣に、と書いてもやつた。又處置方について伺うた横佩墻内の家の長老《トネ》・刀自たちへは、ひたすら、汝等の主の郎女を護つて居れ、と言ふやうな、抽象風なことを、答へて來たりした。
次の消息には、何かと具體した仰せつけがあるだらう、と待つて居る間に、日が立ち、月が過ぎて行くばかりである。其間にも、姫の失はれたと見える魂が、お身に戻るか、其だけの望みで、人々は、山村に止つて居た。物思ひに、屈託ばかりもして居ぬ若人たちは、もう池のほとりにおり立つて、伸びた蓮の莖を切り集め出した。其を見て居た寺の婢女《メヤツコ》が、其はまだ若い、まう半月もおかねばと言つて、寺領の一部に、蓮根《ハスネ》を取る爲に作つてあつた蓮田《ハチスダ》へ、案内しよう、と言ひ出した。
あて人の家自身が、それ/\、農村の大家《オホヤケ》であつた。其が次第に、官人《ツカサビト》らしい姿に更つて來ても、家庭の生活には、何時までたつても、何處か農家らしい樣子が、殘つて居た。家構へにも、屋敷の廣場《ニハ》にも、家の中の雜用具《ザフヨウグ》にも。第一、女たちの生活は、起居《タチヰ》ふるまひ[#「ふるまひ」に傍点]なり、服裝なりは、優雅に優雅にと變つては行つたが、やはり昔の農家の家内《ヤウチ》の匂ひがつき纏うて離れなかつた。刈り上げの秋になると、夫と離れて暮す年頃に達した夫人などは、よく其家の遠い田莊《ナリドコロ》へ行つて、數日を過して來るやうな習しも、絶えることなく、くり返されて居た。
だから、刀自たちは固より若人らも、つくねん[#「つくねん」に傍点]と女部屋の薄暗がりに、明し暮して居るのではなかつた。てんでに、自分の出た村方の手藝を覺えて居て、其を、仕へる君の爲に爲出《シイダ》さう、と出精してはたらいた。
裳の襞を作るのに珍《ナ》い術《テ》を持つた女などが、何でもないことで、とりわけ重寶がられた。袖の先につける鰭袖《ハタソデ》を美しく爲立てゝ、其に、珍しい縫ひとりをする女なども居た。こんなのは、どの家庭にもある話でなく、かう言ふ若人をおきあてた家は、一つのよい見てくれ[#「見てくれ」に傍点]を世間に持つ事になるのだ。一般に、染めや、裁ち縫ひが、家々の顏見合はぬ女どうしの競技のやうに、もてはやされた。摺り染めや、擣《ウ》ち染めの技術も、女たちの間には、目立たぬ進歩が年々にあつたが、浸《ヒ》で染めの爲の染料が、韓の技工人《テビト》の影響から、途方もなく變化した。紫と謂つても、茜と謂つても皆、昔の樣な、染め漿《シホ》の處置《トリアツカヒ》はせなくなつた。さうして、染め上りも、艶々しく、はでなものになつて來た。表向きは、かうした色の禁令が、次第に行きわたつて來たけれど、家の女部屋までは、官《カミ》の目も屆くはずはなかつた。
家庭の主婦が、居まはりの人を促したてゝ、自身も精勵してするやうな爲事は、あて人の家では、刀自等の受け持ちであつた。若人たちも、田畠に出ぬと言ふばかりで、家の中での爲事は、まだ見參《マヰリマミエ》をせずにゐた田舍暮しの時分と、大差はなかつた。とりわけ違ふのは、其家々の神々に仕へると言ふ、誇りはあるが、小むつかしい事がつけ加へられて居る位のことである。外出には、下人たちの見ぬ樣に、笠を深々とかづき、其下には、更に薄帛を垂らして出かけた。
一時《イツトキ》たゝぬ中に、婢女《メヤツコ》ばかりでなく、自身たちも、田におりたつたと見えて、泥だらけになつて、若人たち十數人は戻つて來た。皆手に手に、張り切つて發育した、蓮の莖を抱へて、廬の前に竝んだのには、常々くすり[#「くすり」に傍点]とも笑はぬ乳母《オモ》たちさへ、腹の皮をよつて、切《セツ》ながつた。
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郎女《イラツメ》樣。御覽《ゴラウ》じませ。
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竪帳《タツバリ》を手でのけて、姫に見せるだけが、やつとのことであつた。
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ほう――。
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何が笑ふべきものか、何が憎むに値するものか、一切知らぬ上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《ジヤウラフ》には、唯常と變つた皆の姿が、羨しく思はれた。
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この身も、その田居とやらにおり立ちたい――。
めつさうなこと、仰せられます。
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めつさうな。きまつて、誇張した顏と口との表現で答へることも、此ごろ、この小社會で行はれ出した。何から何まで縛りつけるやうな、身狹乳母《ムサノチオモ》に對する反感も、此ものまね[#「ものまね」に傍点]で幾分、いり合せがつく樣な氣がするのであらう。
其日からもう、若人たちの絲縒りは初まつた。夜は、閨の闇の中で寢る女たちには、稀に男の聲を聞くこともある、奈良の垣内《カキツ》住ひが、戀しかつた。朝になると又、何もかも忘れたやうになつて績《ウ》み貯める。
さうした絲の、六かせ七かせを持つて出て、郎女に見せたのは、其數日後であつた。
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乳母《オモ》よ。この絲は、蝶鳥の翼よりも美しいが、蜘蛛の巣《イ》より弱く見えるがよ――。
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郎女は、久しぶりでにつこりした。勞を犒ふと共に、考への足らぬのを憐むやうである。
刀自は、驚いて姫の詞を堰き止めた。
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なる程、此は脆《サク》過ぎまする。
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女たちは、板屋に戻つても、長く、健やかな喜びを、皆して語つて居た。
全く些《スコ》しの惡意もまじへずに、言ひたいまゝの氣持ちから、
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田居とやらへおりたちたい――、
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を反覆した。
刀自は、若人を呼び集めて、
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もつと、きれぬ絲を作り出さねば、物はない。
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と言つた。女たちの中の一人が、
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それでは、刀自に、何ぞよい御思案が――。
さればの――。
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昔を守ることばかりはいかつい[#「いかつい」に傍点]が、新しいことの考へは唯、尋常《ヨノツネ》の婆の如く、愚かしかつた。
ゆくりない聲が、郎女の口から洩れた。
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この身の考へることが、出來ることか試して見や。
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うま人を輕侮することを、神への忌みとして居た昔人である。だが、かすかな輕《カル》しめに似た氣持ちが、皆の心に動いた。
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夏引きの麻生《ヲフ》の麻《アサ》を績《ウ》むやうに、そして、もつと日ざらしよく、細くこまやかに――。
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郎女は、目に見えぬものゝさとし[#「さとし」に傍点]を、心の上で綴つて行くやうに、語を吐いた。
板屋の前には、俄かに、蓮の莖が乾し竝べられた。さうして其が乾くと、谷の澱みに持ち下りて浸す。浸しては晒し、晒しては水に漬《ヒ》でた幾日の後、筵の上で槌の音高く、こも/″\、交々《コモヾヽ》と叩き柔らげた。
その勤しみを、郎女も時には、端近くゐざり出て見て居た。咎めようとしても、思ひつめたやうな目して、見入つて居る姫を見ると、刀自は口を開くことが出來なくなつた。
日晒しの莖を、八針《ヤツハリ》に裂き、其を又、幾針にも裂く。郎女の物言はぬまなざしが、ぢつと若人たちの手もとをまもつて居る。果ては、刀自も言ひ出した。
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私も、績《ウ》みませう。
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績《ウ》みに績み、又績みに績んだ。藕絲《ハスイト》のまるがせが、日に/\殖えて、廬堂《イホリダウ》の中に、次第に高く積まれて行つた。
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もう今日は、みな月に入る日ぢやの――。
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暦《コヨミ》の事を言はれて、刀自はぎよつ[#「ぎよつ」に傍点]とした。ほんに、今日こそ、氷室《ヒムロ》の朔日《ツイタチ》ぢや。さう思ふ下から齒の根のあはぬやうな惡感を覺えた。大昔から、暦は聖《ヒジリ》の與る道と考へて來た。其で、男女は唯、長老《トネ》の言ふがまゝに、時の來又去つた事を教《ヲソ》はつて、村や、家の行事を進めて行くばかりであつた。だから、教へぬに日月を語ることは、極めて聰《サト》い人の事として居た頃である。愈々魂をとり戻されたのか、と瞻《マモ》りながら、はら/\して居る乳母であつた。唯、郎女は復《マタ》、秋分の日の近づいて來て居ることを、心にと言ふよりは、身の内に、そく/\と感じ初めて居たのである。蓮は、池のも、田居のも、極度に長《タ》けて、莟の大きくふくらんだのも、見え出した。婢女《メヤツコ》は、今が刈りしほだ、と教へたので、若人たちは、皆手も足も泥にして、又田に立ち暮す日が續いた。

        十七

彼岸中日 秋分の夕。朝曇り後晴れて、海のやうに深碧に凪いだ空に、晝過ぎて、白い雲が頻りにちぎれ/\に飛んだ。其が門渡《トワタ》る船と見えてゐる内に、暴風《アラシ》である。空は愈々青澄み、昏くなる頃には、藍の樣に色濃くなつて行つた。見あげる山の端は、横雲の空のやうに、茜色に輝いて居る。
大山颪。木の葉も、枝も、顏に吹きつけられる程の物は、皆活きて青かつた。板屋は吹きあげられさうに、煽りきしんだ。若人たちは、悉く郎女の廬に上つて、刀自を中に、心を一つにして、ひしと顏を寄せた。たゞ互の顏の見えるばかりの緊張した氣持ちの間に、刻々に移つて行く風。西から眞正面《マトモ》に吹きおろしたのが、暫らくして北の方から落して來た。やがて、風は山を離れて、平野の方から、山に向つてひた吹きに吹きつけた。峰の松原も、空樣《ソラザマ》に枝を掻き上げられた樣になつて、悲鳴を續けた。谷から峰《ヲ》の上《ヘ》に生え上《ノボ》つて居る萱原は、一樣に上へ/\と糶《セ》り昇るやうに、葉裏を返して扱《コ》き上げられた。
家の中は、もう暗くなつた。だがまだ見える庭先の明りは、黄にかつきり[#「かつきり」に傍点]と、物の一つ/\を、鮮やかに見せて居た。
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郎女樣が――。
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誰かの聲である。皆、頭の毛が空へのぼる程、ぎよつとした。其が、何だと言はれずとも、すべての心が、一度に了解して居た。言ひ難い恐怖にかみづゝた女たちは、誰一人聲を出す者も居なかつた。
身狹[#(ノ)]乳母は、今の今まで、姫の側に寄つて、後から姫を抱へて居たのである。皆の人はけはひで、覺め難い夢から覺めたやうに、目をみひらくと、あゝ、何時の間にか、姫は嫗の兩《モロ》腕兩膝の間には、居させられぬ。一時に、慟哭するやうな感激が來た。だが長い訓練が、老女の心をとり戻した。凛として、反り返る樣な力が、湧き上つた。
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誰《タ》ぞ、弓を――。鳴弦《ツルウチ》ぢや。
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人を待つ間もなかつた。彼女自身、壁代《カベシロ》に寄せかけて置いた白木の檀弓《マユミ》をとり上げて居た。
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それ皆の衆――。反閇《アシブミ》ぞ。もつと聲高《コワダカ》に――。あっし、あっし、それ、あっしあっし……。
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若人たちも、一人々々の心は、疾くに飛んで行つてしまつて居た。唯一つの聲で、警※[#「馬+畢」、147−2]《ケイヒツ》を發し、反閇《ヘンバイ》した。
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あっし あっし。
あっし あっし あっし。
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狹い廬の中を蹈んで※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つた。脇目からは、遶道《ネウダウ》する群れのやうに。
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郎女樣は、こちらに御座りますか。
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萬法藏院の婢女《メヤツコ》が、息をきらして走つて來て、何時もなら、許されて居ぬ無作法で、近々と、廬の砌《ミギリ》に立つて叫んだ。
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なに――。
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