其まゝ石のやうに、老女はぢつとして居る。冷えた夜も、朝影《アサカゲ》を感じる頃になると、幾らか温みがさして來る。
萬法藏院は、村からは遠く、山によつて立つて居た。曉早い鷄の聲も、聞えぬ。もう梢を離れるらしい塒鳥が、近い端山《ハヤマ》の木群《コムラ》で、羽振《ハブ》きの音を立て初めてゐる。

        五

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おれは活《イ》きた。
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闇い空間は、明りのやうなものを漂してゐた。併し其は、蒼黒い靄の如く、たなびくものであつた。
巖ばかりであつた。壁も、牀《トコ》も、梁《ハリ》も、巖であつた。自身のからだすらが、既に、巖になつて居たのだ。
屋根が壁であつた。壁が牀であつた。巖ばかり――。觸《サハ》つても觸つても、巖ばかりである。手を伸すと、更に堅い巖が、掌に觸れた。脚をひろげると、もつと廣い磐石《バンジヤク》の面《オモテ》が、感じられた。
纔かにさす薄光りも、黒い巖石が皆吸ひとつたやうに、岩窟《イハムロ》の中に見えるものはなかつた。唯けはひ[#「けはひ」に傍点]――彼の人の探り歩くらしい空氣の微動があつた。
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思ひ出
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