ヽヽ》に屋敷を構へ、家造りをした。その次の御代になつても、藤原の都は、日に益し、宮殿が建て増されて行つて、こゝを永宮《トコミヤ》と遊ばす思召しが伺はれた。その安堵の心から、家々の外《ソト》には、石城を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]すものが、又ぼつ/″\出て來た。さうして、そのはやり風俗が、見る/\うちに、また氏々の族長の家圍ひを、あらかた石にしてしまつた。その頃になつて、天眞宗豐祖父尊樣《アメマムネトヨオホヂノミコトサマ》がおかくれになり、御母《ミオヤ》 日本根子天津御代豐國成姫《ヤマトネコアマツミヨトヨクニナスヒメ》の大尊樣《オホミコトサマ》がお立ち遊ばした。その四年目思ひもかけず、奈良の都に宮遷しがあつた。ところがまるで、追つかけるやうに、藤原の宮は固より、目ぬきの家竝みが、不意の出火で、其こそ、あつと言ふ間に、痕形もなく、空《ソラ》の有《モノ》となつてしまつた。もう此頃になると、太政官符《ダジヤウグワンプ》に、更に嚴《キビ》しい添書《コトワキ》がついて出ずとも、氏々の人は皆、目の前のすばやい人事自然の交錯した轉變《テンペン》に、目を瞠るばかりであつたので、久しい石城《シキ》の問題も、其で、解決がついて行つた。
古い氏種姓《ウヂスジヤウ》を言ひ立てゝ、神代以來の家職の神聖を誇つた者どもは、其家職自身が、新しい藤原奈良の都には、次第に意味を失つて來てゐる事に、氣がついて居なかつた。
最早くそこに心づいた、姫の祖父|淡海《タンカイ》公などは、古き神祕を誇つて來た家職を、末代まで傳へる爲に、別に家を立てゝ中臣の名を保たうとした。さうして、自分・子供ら・孫たちと言ふ風に、いちはやく、新しい官人《ツカサビト》の生活に入り立つて行つた。
ことし、四十を二つ三つ越えたばかりの大伴家持《オホトモノヤカモチ》は、父|旅人《タビト》の其年頃よりは、もつと優れた男ぶりであつた。併し、世の中はもう、すつかり變つて居た。見るもの障《サハ》るもの、彼の心を苛《イラ》つかせる種にならぬものはなかつた。淡海公の、小百年前に實行して居る事に、今はじめて自分の心づいた鈍《オゾ》ましさが、憤らずに居られなかつた。さうして、自分とおなじ風の性向の人の成り行きを、まざ/″\省みて、慄然とした。現に、時に誇る藤原びとでも、まだ昔風の夢に泥《ナヅ》んで居た南家の横佩右大臣は、さきをとゝし、太宰[#(ノ)]員外帥《ヰングワイノソツ》に貶《オト》されて、都を離れた。さうして今は、難波で謹愼してゐるではないか。自分の親旅人も、三十年前に踏んだ道である。世間の氏上家《ウヂノカミケ》の主人《アルジ》は、大方もう、石城《シキ》など築《キヅ》き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]《マハ》して、大門小門を繋ぐと謂つた要害と、裝飾とに、興味を失ひかけて居るのに、何とした自分だ。おれはまだ現に、出來るなら、宮廷のお目こぼしを頂いて、石に圍はれた家の中で、家の子どもを集め、氏人《ウヂビト》たちを召《ヨ》びつどへて、弓場《ユバ》に精勵させ、捧術《ホコユケ》・大刀かき[#「大刀かき」に傍点]に出精《シユツセイ》させよう、と謂つたことを空想して居る。さうして年々《トシヾヽ》頻繁に、氏神其外の神々を祭つてゐる。其度毎に、家の語部《カタリベ》大伴[#(ノ)]語造《カタリヤツコ》の嫗《オムナ》たちを呼んで、之に捉《ツカマ》へ處《ドコロ》もない昔代《ムカシヨ》の物語りをさせて、氏人《ウヂビト》に傾聽を強ひて居る。何だか、空《クウ》な事に力を入れて居たやうに思へてならぬ寂しさだ。
だが、其氏神祭りや、祭りの後宴《ゴエン》に、大勢《オホセイ》の氏人《ウヂビト》の集ることは、とりわけやかましく言はれて來た、三四年以來の法度《ハツト》である。
こんな溜め息を洩しながら、大伴氏の舊い習しを守つて、どこまでも、宮廷守護の爲の武道の傳襲に、努める外はない家持だつたのである。
越中守として踏み歩いた越路《コシヂ》の泥のかたが、まだ行縢《ムカバキ》から落ちきらぬ内に、もう復《マタ》、都を離れなければならぬ時の、迫つて居るやうな氣がして居た。其中、此針の筵の上で、兵部少輔《ヒヤウブセフ》から、大輔《タイフ》に昇進した。そのことすら、益々脅迫感を強める方にばかりはたらいた。
今年五月にもなれば、東大寺の四天王像の開眼《カイゲン》が行はれる筈で、奈良の都の貴族たちには、すでに寺から内見を願つて來て居た。さうして、忙しい世の中にも、暫らくはその評判が、すべてのいざこざをおし鎭める程に、人の心を浮き立たした。本朝《ホンテウ》出來の像としては、まづ、此程物凄い天部《テンブ》の姿を拜んだことは、はじめてだ、と言ふものもあつた。神代の荒《アラ》神たちも、こんな形相《ギヤウサウ》でおありだつたらう、と言ふ噂も聞かれた。
まだ公《オホヤケ》の供養もすまぬのに、人の口はうるさいほど、頻繁に流説をふり撒いてゐた。あの多聞天と、廣目天との顏つきに、思ひ當るものがないか、と言ふのであつた。此はこゝだけの咄だよ、と言つて話したのが、次第に廣まつて、家持の耳までも聞えて來た。なるほど、憤怒《フンヌ》の相《サウ》もすさまじいにはすさまじいが、あれがどうも、當今大倭一だと言はれる男たちの顏、そのまゝだと言ふのである。貴人は言はぬ、かう言ふ種類の噂は、えて[#「えて」に傍点]供をして見て來た道々《ミチヽヽ》の博士《ハカセ》たちと謂つた、心|蔑《サモ》しいものゝ、言ひさうな事である。
多聞天は、大師《タイシ》藤原[#(ノ)]惠美中卿《ヱミチユウケイ》だ。あの柔和な、五十を越してもまだ、三十代の美しさを失はぬあの方が、近頃おこりつぽくなつて、よく下官や、仕《ツカ》へ人《ビト》を叱るやうになつた。あの圓滿《ウマ》し人《ビト》が、どうしてこんな顏つきになるだらう、と思はれる表情をすることがある。其|面《オモ》もちそつくりだ、と尤らしい言ひ分なのである。
さう言へば、あの方が壯盛《ワカザカ》りに、捧術《ホコユケ》を嗜《コノ》んで、今にも事あれかしと謂つた顏で、立派な甲《ヨロヒ》をつけて、のつし/\と長い物を杖《ツ》いて歩かれたお姿が、あれを見てゐて、ちらつくやうだなど、と相槌をうつ者も出て來た。其では、廣目天の方はと言ふと、
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さあ、其がの――。
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と誰に言はせても、ちよつと言ひ澁るやうに、困つた顏をして見せる。
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實は、ほんの人の噂だがの。噂だから、保證は出來ぬがの。義淵僧正の弟子の道鏡法師に、似てるぞなと言ふがや。……けど、他人《ヒト》に言はせると、――あれはもう、二十幾年にもなるかいや――筑紫で伐たれなされた前太宰少貳《ゼンダザイノセウニ》―藤原廣嗣―の殿《トノ》に生寫《シヤウウツ》しぢや、とも言ふがいよ。
わしにも、どちらとも言へんがの。どうでも、見たことのあるお人に似て居さつしやるには、似てゐさつしやるげな……。
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何しろ、此二つの天部《テンブ》が、互に敵視するやうな目つきで、睨みあつて居る。噂を氣にした住侶たちが、色々に置き替へて見たが、どの隅からでも、互に相手の姿を、眦《マナジリ》を裂いて見つめて居る。とう/\あきらめて、自然にとり沙汰の消えるのを待つより爲方がない、と思ふやうになつたと言ふ。
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若しや、天下に大亂でも起きなければえゝが――。
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こんな※[#「口+耳」、第3水準1−14−94]きは、何時までも續きさうに、時と共に倦まずに語られた。
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前《セン》少貳殿でなくて、弓削新發意《ユゲシンボチ》の方であつてくれゝば、いつそ安心だがなあ。あれなら、事を起しさうな房主でもなし。起したくても、起せる身分でもないぢやまで――。
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言ひたい傍題《ハウダイ》な事を言つて居る人々も、たつた此一つの話題を持ちあぐね初めた頃、噂の中の大師|惠美《ヱミノ》朝臣の姪の横佩家の郎女《イラツメ》が、神隱しに遭うたと言ふ、人の口の端に旋風《ツジカゼ》を起すやうな事件が、湧き上つたのである。

        九

兵部大輔《ヒヤウブタイフ》大伴[#(ノ)]家持は、偶然この噂を、極めて早く耳にした。ちようど、春分《シユンブン》から二日目の朝、朱雀大路を南へ、馬をやつて居た。二人ばかりの資人《トネリ》が徒歩《カチ》で、驚くほどに足早について行く。此は、晋唐の新しい文學の影響を受け過ぎるほど、享け入れた文人かたぎの彼には、數年來珍しくもなくなつた癖である。かうして、何處まで行くのだらう。唯、朱雀の竝み木の柳の花がほゝけて、霞のやうに飛んで居る。向うには、低い山と、細長い野が、のどかに陽炎《カゲロ》ふばかりである。
資人の一人が、とつと[#「とつと」に傍点]ゝ追ひついて來たと思ふと、主人の鞍に顏をおしつける樣にして、新しい耳を聞かした。今行きすがうた知り人の口から、聞いたばかりの噂である。
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それで、何か――。娘御の行くへは知れた、と言ふのか。
はい……。いゝえ。何分、その男がとり急いで居りまして。
この間拔け。話はもつと上手に聽くものだ。
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柔らかく叱つた。そこへ今《モ》一人の伴《トモ》が、追ひついて來た。息をきらしてゐる。
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ふん。汝《ワケ》は聞き出したね。南家《ナンケ》の孃子《ヲトメ》は、どうなつた――。
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出|端《ハナ》に油かけられた資人《トネリ》は、表情に隱さず心の中を表した此頃の人の、自由な咄し方で、まともに鼻を蠢して語つた。
當麻の邑まで、をとゝひ夜《ヨ》の中に行つて居たこと、寺からは、昨日午後、横佩|墻内《カキツ》へ知らせが屆いたこと其外には、何も聞きこむ間のなかつたことまで。家持の聯想は、環のやうに繋つて、暫らくは馬の上から見る、街路も、人通りも、唯、物として通り過ぎるだけであつた。
南家で持つて居た藤原の氏上《ウヂノカミ》職が、兄の家から、弟仲麻呂―押勝―の方へ移らうとしてゐる。來年か、再來年《サライネン》の枚岡《ヒラヲカ》祭りに、參向する氏人の長者は、自然かの大師のほか、人がなくなつて居る。惠美家《ヱミケ》からは、嫡子|久須麻呂《クスマロ》の爲、自分の家の第一孃子をくれとせがまれて居る。先日も、久須麻呂の名の歌が屆き、自分の方でも、娘に代つて返し歌を作つて遣した。今朝《ケサ》も今朝、又折り返して、男からの懸想文《ケサウブミ》が、來てゐた。
その壻候補《ムコガネ》の父なる人は、五十になつても、若かつた頃の容色に頼む心が失せずにゐて、兄の家娘にも執心は持つて居るが、如何に何でも、あの郎女だけには、とり次げないで居る。此は、横佩家へも出入りし、大伴家へも初中終《シヨツチユウ》來る古刀自《フルトジ》の、人のわるい内證話であつた。其を聞いて後、家持自身も、何だか好奇心に似たものが、どうかすると頭を擡《モタ》げて來て困つた。仲麻呂は今年、五十を出てゐる。其から見れば、ひとまはりも若いおれなどは、思ひ出にまう一度、此|匂《ニホ》やかな貌花《カホバナ》を、垣内《カキツ》の坪苑《ツボ》に移せぬ限りはない。こんな當時の男が、皆持つた心をどり[#「をどり」に傍点]に、はなやいだ、明るい氣がした。
だが併し、あの郎女は、藤原四家の系統《スヂ》で一番、神《カム》さびたたち[#「たち」に傍点]を持つて生れた、と謂はれる娘御である。今、枚岡《ヒラヲカ》の御神《オンカミ》に仕へて居る齋《イツ》き姫《ヒメ》の罷める時が來ると、あの孃子《ヲトメ》が替つて立つ筈だ。其で、貴い所からのお召しにも應じかねて居るのだ。……結局、誰も彼も、あきらめねばならぬ時が來るのだ。神の物は、神の物――。横佩家の娘御は、神の手に落ちつくのだらう。
ほのかな感傷が、家持の心を淨めて過ぎた。おれは、どうもあきらめが、よ過ぎる。十《トヲ》を出たばかりの幼さで、母は死に、父は疾んで居る太宰府へ降つて、夙《ハヤ》くから、海
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