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案じるなよ。庭が行き届き過ぎて居ると思うてるのだらう。そんなことはないさ。庭はよくても、亡びた人ばかりはないさ。淡海公の御館は、どの家でも引き継がずに荒してはあるが、あの立派さは、それ[#「それ」に傍点]あの山部の何とか言つた地下《ぢげ》の召《め》し人《びと》の歌よみが、「昔見し池の堤は年深み……」と言つた位だが、其後は、これ[#「これ」に傍点]此様に四流にも岐れて栄えてゐる。もつとあるよ――。何、庭などによるものではない。
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恃《たの》む所の深い此あて人は、庭の風景の目立つた個処々々を指摘しながら、其拠る所を日本漢土に渉つて説明した。
長い廊を数人の童《わらは》が続いて来る。
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日ずかしです。お召しあがり下さいませう。
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改つて、簡単な饗応の挨拶をした。まらうどに、早く酒を献じなさいと言つてゐる間に、美しい※[#「女+綵のつくり」、97−12]女《うねめ》が、盃を額より高く捧げて出た。
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をゝ、それだけ受けて頂けばよい。舞ひぶりを一つ見て貰ひなさい。
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家持は、何を考へても、先を越す敏感な主人に対して、唯虚心で居るより外はなかつた。
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うねめ[#「うねめ」に傍点]は、大伴の氏上へもまだ下さらないのだつたね。藤原では御存知でもあらうが、先例が早くからあつて、淡海公が近江[#(ノ)]宮から頂戴した故事で、頂く習慣になつて居ります。
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時々こんな畏まつたもの言ひもまじへた。兵部大輔は、自身の語づかひにも、初中終気扱ひをせねばならなかつた。
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氏上もな、身が執《しふ》心で、兄公殿を太宰府へ追ひまくつて、後に据らうとするのだと言ふ奴があるといの――。やつぱり「奴はやつこどち」だなあ。さう思ふよ。時に女姪《めひ》の姫だが――。
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さすがの聡明第一の紫微内相も、酒の量が少かつた。其が今日は幾分行けたと見えて、話が循環して来た。家持は、一度はぐらかされた緒《いと》口にとりついた気で、
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横佩|墻《かき》内の郎女は、どうなるのでせう。宮・社・寺、どちらに行つても、神さびた一生。あつたら惜しいものだな。
気にするな。気にするな。気にしたとて、どう出来るものか。此は――もう、人間の手へは戻らないかも知れんぞ。
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末は独り言になつて居た。さうして、急に考へ込んで行つた。池へ落した水音は、未《ひつじ》がさがると、寒々と聞えて来る。
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早く、躑躅の照る時分になつてくれないかなあ。一年中で、この庭の一等よい時が待ちどほしい。
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紫微内相藤原仲麻呂の声は、若々しい欲望の外、何の響きをもまじへて居なかつた。


       十

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つた つた つた
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郎女は、夜が更けると、一向《ひたすら》、あの音の歩み寄つて来るのを待つやうになつた。
をとゝひよりは昨日、昨日よりは今日といふ風に、其跫音が間遠になつて行き、此頃はふつ[#「ふつ」に傍点]に音せぬやうになつた。その氷の山に対うて居るやうな骨の疼く戦慄の快感、其が失せて行くのを虞れるやうに、姫は夜毎、鶏のうたひ出すまでは殆ど祈る心で待ち続けて居た。
絶望のまゝ、幾晩も仰ぎ寝たきりで目は昼よりも寤《さ》めて居た。其間に起つた夜の間の現象には、一切心が留らなかつた。
現にあれほど、郎女の心を有頂天に引き上げた頂板《つし》の面《おもて》の光輪にすら、明盲《あきじ》ひのやうに、注意は惹かれなくなつた。こゝに来て、疾《と》くに七日は過ぎ、十日・半月になつた。山も野も春のけしきが整うて居た。野茨の花のやうだつた小桜が散り過ぎて、其に次ぐ山桜が谷から峰かけて、断続しながら咲いてゐるのも見える。麦生は驚くばかり伸び、里人の野為事に出る姿が、終日動いてゐる。
都から来た人たちの中、何時までこの山陰に春を起き臥すことかと侘びる者が殖えて行つた。廬堂の近くに、板屋を掘り立てゝ、かう長びくと思はなかつたし、まだどれだけ続くかも知れぬ此生活に、家ある者は妻子に会ふことばかりを考へた。親に養はれる者は、家の父母の外にも、隠れた恋人を思ふ心が切々として来るのである。女たちは、かうした場合にも、平気に近い感情で居られる長い暮しの習はしに馴れて、何かと為事を考へてはして居る。女方の小屋は、男のとは別に、もつと廬に接して建てられて居た。
身狭乳母《むさのおも》の思ひやりから、男たちの多くは、唯さへ小人数な奈良の御館《みたち》の番に行けと言つて還され、長老《おとな》一人の外は、唯|雑用《ざふよう
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