中の豊かな騒ぎが思ひ出された。あれからすぐ、大仏|開眼《かいげん》供養が行はれたのであつた。其時、近々と仰ぎ奉つた尊容三十二|種好《しゆがう》具足したと謂はれる其相好が、誰やらに似てゐると感じた。其がどうしても思ひ浮ばずにしまつた。その時の連想が、今ぴつたり的にあてはまつて来たのである。
かうして対ひあつて居る仲麻呂の顔なり、姿なりが、其まゝあの廬遮那《るさな》ほとけの俤だと言つて、誰が否まう。
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お身も少し咄したら、えゝではないか。官位《かうぶり》はかうぶり。昔ながらの氏は氏――。なあ、さう思ふだろう。紫微中台と兵部省と位づけするのは、うき世の事よ。家《うち》に居れば、やはり神代以来《かみよいらい》の氏の上《かみ》づきあひをしようよ――。
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新しい唐の制度の模倣ばかりして、漢《もろこし》の才《さえ》がやまと心[#「やまと心」に傍点]に入り替つたと謂はれて居る此人が、こんな嬉しいことを言ふ。家持は感謝したい気がした。理会者、同感者を思ひがけない処に見つけ出した嬉しさだつたのである。
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お身は、宋玉や、登徒子の書いた物を大分持つて居ると言ふが、太宰府へ行つた時に手に入れたのぢやな。あんな若い年で、わせ[#「わせ」に傍点]だつたんだなう。お身は――。お身の家では古麻呂《こまろ》、身の氏に近い者では奈良麻呂、あれらは漢魏はおろか今の唐の小説なども、ふり向きもせんから、咄にはならぬて。
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兵郡大輔は、やつと話のつきほを捉へた。
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お身さまの話ぢやが、わしは賦の類には飽きました。どうも、あれが、この四十面さげてもまだ、涙もろい詩や歌の出て来る元になつて居る――さうつく/″\思ひますので。ところで近頃は方《かた》を換へて、張文成を拾ひ読みすることにしました。あの方が、なんぼか――。
大きに、其は、身も賛成ぢや。ぢやが、お身がこの年になつても、まだ二十《はたち》代の若い心や瑞々しい顔を持つて居るのは宋玉のおかげぢやぞや。まだなか/\隠れては歩き居ると人の噂ぢやが、嘘ぢやない。身が保証する。おれなどは張文成ばかり古くから読み過ぎて、早く精気が尽きてしまうた心持ちがする。――ぢやが全く、文成はえゝなう。漢土《もろこし》びとぢやとは言へ、心はまるでやまとのものと一つと思ふが、お身は諾《うべな》ふかね。
文成に限る事ではおざらぬが、あちらの物は読んで居て、知らぬ事ばかり教へられるやうで、時々ふつと思ひ返すと、こんな思はざつた考へも、身は持つことになつた――そんな空恐しい気さへすることがあります。お身さまにも、そんな経験《おぼえ》が、おありでせう。
大ありおほ有り、毎日々々、其ぢや。しまひにどうなるのぢや。こんなに智慧づいてはと思はれてならぬことが――ぢやが、女子《をみなご》だけにはまづ当分、女部屋のほの暗い中で、こんな智慧づかぬのどかな心で居さしたいものぢや。第一其が、男の為ぢや。
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家持は、此了解に富んだ貴人の語に、何でも言つてよい、青年のやうな気が湧いて来た。
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さやう/\。智慧を持ち初めては女部屋には、ぢつとして居ませぬな。第一|横佩墻内《よこはきかきつ》の――
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いけないことを言つたと思つた。同時に此|臆《おく》れた気の出るのが、自分を卑《ひく》くし、大伴氏を昔の位置から自ら蹶落す心なのだと感じた。
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好《えゝ》、好《えゝ》。遠慮はやめやめ。氏の上《かみ》づきあひぢやもん。ほい又出た。おれはまだ藤氏の氏上に任ぜられた訣ぢやなかつたつけな。
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瞬間暗い顔をしたが、直にさつと眉の間から輝きが出た。
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身の女姪《めひ》の姫が神隠しにあうた話か。お身は、あの謎見たいないきさつを、さう解《と》るかね。ふん。いやおもしろい。女姪の姫も定めて喜ぶぢやらう。実は、これまで内々小あたりにあたつて見たと言ふ口かね、お身も。
大きに。
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今度は軽い心持ちが、大胆に仲麻呂の話を受けとめた。
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お身さまが経験《ためし》ずみぢやで、其で郎女の才高《さえだか》さと、男|択《えら》びすることが訣りますな――。
此は、額《ひたひ》ざまに切りつけられた――。免せ/\と言ふところぢやが――、あれはの、生れだちから違ふものな。藤原の氏姫ぢやからの。枚岡《ひらをか》の斎《いつ》き姫にあがる宿世《すくせ》を持つて生まれた者ゆゑ、人間の男は、弾く、弾く、弾きとばす。近よるまいぞよ、はゝはゝゝ。
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内相は、笑ひをぴたりと止めて、家持の顔を見ながら、きまじめな表情になつた。
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