月輪《ぐわちりん》が重つてゐる如くも見えた。其が隙間風の為であらう。時々薄れて行くと、一つの月になつた。ぽつと明り立つと、幾重にも隈の畳まつた大きな円かな光明になる。
幸福に充ちて、忘れて居た姫の耳に、今はじめて谷の響きが聞え出した。更けた夜空には、此頃やつと、遅い月が出たことであらう。
物の音。――つた/\と来て、ふうと佇《た》ち止るけはひ。耳をすますと、元の寂かな夜に、激《たぎ》ち降る谷のとよみ。
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つた つた つた
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又ひたと止《や》む。
この狭い廬の中を、何時まで歩く、足音だらう。
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つた
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郎女は刹那、思ひ出して牀の中で身を固くした。次にわぢ/\[#「わぢ/\」に傍点]と戦《をのゝ》きが出て来た。
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天若御子《あめわかみこ》――。
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ようべ、当麻語部嫗《たぎまかたりのおみな》の聞かした物語。あゝ其お方の来て窺ふ夜なのか。
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――青馬の 耳面刀自《みゝものとじ》。
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刀自もがも。女弟《おと》もがも。
その子の はらからの子の
処女子の 一人
一人だに わが配偶《つま》に来よ。
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まことに畏しかつたことを覚えない郎女にしては、初めてまざ/″\と圧へられるやうな畏《こは》さを知つた。あゝあの歌が、胸に生《い》き蘇《かへ》つて来る。忘れたい歌の文句が、はつきりと意味を持つて、姫の唱へぬ口の詞から、胸にとほつて響く。すさまじい動悸。
帷帳《とばり》が一度、風を含んだ様に皺だむ。
ついと[#「ついと」に傍点]、凍る様な冷気――。
郎女は目を瞑つた。だが――瞬間※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]の間から映《うつ》つた細い白い指、まるで骨のやうな――帷帳《とばり》を掴んだ片手の白く光る指。
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あな たふと 阿弥陀仏。なも阿弥陀仏。
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何の反省もなく、唇を洩れた詞。この時、姫の心は急に寛ぎを感じた。さつと――汗。全身に流れる冷いものを覚えた。
畏《こは》い感情を持つたことのないあて人の姫は、直《すぐ》に動顛した心をとり直すことが出来た。
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なも あみだぶつ
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今《も》一度口
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