わり]
ひとり言しながら、ぢつと見てゐるうちに、花は広い萼《うてな》の上に乗つた仏の前の大きな花になつて来る。其がまた、ふつと目の前のさゝやかな花に戻る。
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夕風が冷《ひや》ついて参ります。内へ――。
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乳母が言つた。見渡す山は、皆影濃くあざやかに見えて来た。
一番近く谷を隔て、端山の林や崖《なぎ》の幾重も重つた上に、二上の男嶽《をのかみ》の頂が、赤い日に染つて立つてゐる。
今日は、あまりに静かな夕《ゆふべ》である。山ものどかに夕雲の中に這入つて行かうとしてゐる。
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まうし。まう外に居る時では御座りません。
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八
「朝目よく」うるはしい兆《しる》しを見た昨日は、郎女にとつて、知らぬ経験を、後から後から展いて行つた。たゞ人《びと》の考へから言へば、苦しい現実のひき続きではあつたのだが、姫にとつては、心驚く事ばかりであつた。
一つ/\変つた事に逢ふ度に、姫は「何も知らぬ身であつた」と心の底で声を上げた。さうして、その事毎に挨拶をしてはやり過したい気が一ぱいであつた。今日も其続きを、くはしく見た。なごり惜しく過ぎ行く現《うつ》し世のさま/″\。郎女は、今目を閉ぢて、心に一つ/\収めこまうとして居る。ほのかに通り行き、将《はた》著しくはためき過ぎたもの――。
宵闇の深くならぬ間に、廬《いほり》のまはりは、すつかり手入れがせられた。燈台も大きなのを、寺から借りて来て、煌々と油|火《び》が燃えて居る。明王像も、女人のお出での場処にはすさまじいと云ふ者があつて、どこかへ搬んで行かれた。其よりも、郎女の為には帳台が、設備《しつら》はれてゐた安らかさ。夜も、今宵は暖かであつた。帷帳《とばり》を周らした中は、ほの暗かつた。其でも、山の鬼神《もの》、野の魍魎《もの》を避ける為の燈の渦が、ぼうと梁に張り渡した頂板《つしいた》に揺らめいて居るのが頼もしい気を深めた。帳台のまはりには、乳母や若人が寝たらしい。もう其も一時も前の事で、皆すや/\と息の音を立てゝ居る。姫の心は、今は軽かつた。
たとへば、俤に見たお人には逢はなくとも、その俤を見た山の麓に来て、かう安らかに身を横へて居る。
燈台の明りは、郎女の額の上に、高く朧ろに見える光りの輪を作つて居た。月のやうに円くて、幾つも上へ/\と
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