いで緘黙行《しゞま》を守ることは、死ぬよりもつらい行《ぎやう》であつた。刀自らの油断を見ては、ぼつ/\話をしてゐる。其きれ/″\が、聞かうとも思はぬ郎女の耳にも、ぼつ/\と這入つて来《き》勝ちなのであつた。
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鶯の鳴く声は、あれで法華経《ほけきやう》々々々《/\》と言ふのぢやさうな。
ほゝ、どうして、え。
天竺のみ仏は、をなご[#「をなご」に傍点]は助からぬものぢやと説かれ/\して来たがえ、其果てに、女《をなご》でも救ふ道を開かれた。其を説いたのが、法華経ぢやと言ふげな。
――こんなこと、をなごの身で言ふと、さかしがりよと思はうけれど、でも世間ではさう言ふもの。――
ぢやで、法華経々々々と経の名を唱へるだけで、この世からあの世界への苦しみが助かるといの。
ほんにその、天竺のをなごの化《な》り変つたのがあの鳥で、み経の名を呼ばはるのかえ。
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郎女は、此を小耳に挿んで後、何時までも其印象が消えて行かなかつた。
その頃は、称讃浄土摂受経《しようさんじやうどせふじゆきやう》を千部写さうとの願を発《おこ》して居た時であつた。其がはかどらない。何時までも進まない。茫とした耳に、此|世話《よばなし》が紛れ入つて来たのである。
ふつと、こんな気がした。
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ほゝき鳥は、先の世で、法華経手写の願を立てながら、え果たさいで、死にでもした、いとしい女子《をみなご》がなつたのではなからうか。
今若し自身も、千部に満たずにしまふやうなことがあつたら、魂《たま》は何になるやら。やつぱり鳥にでも生れて、切《せつ》なく鳴き続けることであらう。
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つひしか、ものを考へた事もないあて人の郎女であつた。磨かれない智慧を抱いたまゝ、何も知らず思はずに過ぎて行つた幾百年、幾万の貴い女性《によしやう》の間に、蓮《はちす》の花がぽつちりと莟を擡《もた》げたやうに、物を考へることを知り初《そ》めたのである。
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をれよ。鶯よ。あな姦《かま》や。人に物思ひをつけくさる。
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荒々しい声と一しよに、立つて表戸と直角《かね》になつた草壁の蔀戸《しとみど》をつきあげたのは、当麻語部《たぎまかたり》の嫗《おむな》である。北側に当るらしい其外側は、※[#「片+總のつくり」、第3水準1−87−68
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