下げ]
をゝ寒い。おれをどうしろと仰るのだ。尊いおつかさま。おれが悪かつたと言ふのなら、あやまります。著物を下さい。著物を。此では地べたに凍りついてしまひます。
[#ここで字下げ終わり]
彼の人には、声であつた。だが、声でないものとして、消えてしまつた。声でない語が、何時までも続く。
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くれろ。おつかさま。著物がなくなつた。すつ裸で出て来た赤ん坊になりたいぞ。赤ん坊だ。おれは。こんなに寝床の上を這ひずり廻つてゐるのが、誰にも訳らないのか。こんなに手足をばた/\やつてゐるおれの見える奴が居んのか。
[#ここで字下げ終わり]
その唸き声のとほり、彼の人の骸は、まるで駄々をこねる赤子のやうに、足もあがゞに身あがきをば、くり返して居る。明りのさゝなかつた墓穴の中が、時を経て、薄い氷の膜ほど物のたゝずまひを幾分朧ろに見わけることが出来るやうになつて来た。其はどこからか、月光とも思へる薄あかりがさし入つて来たのである。
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どうしよう。どうしよう。おれは。――大刀までこんなに、錆びてしまつた……。
[#ここで字下げ終わり]
二
月は、依然として照つて居た。山が高いので、光りのあたるものが少かつた。山を照らし、谷を輝かして、剰る光りは、又空に跳ね返つて、残る隅々までも、鮮やかにうつし出した。
足もとには、沢山の峰があつた。黒ずんで見える峰々が入りくみ、絡みあつて、深々と畝つてゐる。其が見えたり隠れたりするのは、この夜更けになつて、俄かに出て来た霞の所為《せゐ》だ。其が又、此冴え/\とした月夜を、ほつとり[#「ほつとり」に傍点]と暖かく感じさせて居る。
端山《はやま》の広い群《むらが》りの先《さき》は、白い砂の光る河原だ。目の下遠く続いた輝く大佩帯《おほおび》は、石川である。その南北に渉つてゐる長い光りの筋が、北の端で急に拡つて見えるのは、凡河内《おほしかふち》の邑のあたりであらう。其へ、山国を出たばかりの堅塩《かたしほ》川―大和川―が行きあつて居るのだ。そこから、乾《いぬゐ》の方へ、光りを照り返す平面が、幾つも列つて見えるのは、日下江《くさかえ》・難波江《なにはえ》などの水面であらう。
寂かな夜である。やがて鶏鳴近い山の姿は、一様に露に濡れたやうに、しつとりとして静まつて居る。谷にちら/\する雪のやうな輝きは、目の下の
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